蜂鳥ー倉中玲個展

「これだけはテーマより描いてみたいという気持ちの強さから描きました」とのことでした。

「蜂鳥」
倉中玲さんの言葉とは裏腹に「跨越(かえつ)」が見えてしまいそうなのはテーマに縛られているのだろうか。
鳥なのに虫(蜂)にしか見えない。以前見たことがある。ちょっと大き目な蜂にしか見えなかったのでこれしか名付けようがなかったことに強く同意した覚えがある。

鳥なのに蜂と認識された日もあったに違いない。
それは人間の勝手な不認識。

テーマにがんじがらめではない倉中玲も見てしまった。

風媒花ー倉中玲個展

葡萄の花のイメージです。
「葡萄畑の天使」でも天使が葡萄を降らせるシーンがあります。
ヨーロッパでは葡萄に豊かさを見ます。

葡萄の花が咲き、たくさん実れば、ワインがたくさんできる。

たくさんの花が咲けば人々は喜んだであろうことは想像できることです。

葡萄の花には花びらがない。そんな花知っていましたか?私は知らなかった。
そしてその花言葉はなんと「狂気」

豊かさをもたらすであろう花なのに「狂気」

「跨越(かえつ)」を試みようとすることは「狂気」なのだろうか?
確かに彼岸(相手)を全て理解することは不可能だけど、理解しようとすることは大事なことだと思う。完全に理解できると思うことは「狂気」なのかもしれないけれど、試みることは「狂気」ではない。そしてできるだけ彼岸(相手)を知ろうとすることは大事なことなんだと思う。

 

 

水辺の鶴、雪原の鶴ー倉中玲個展

倉中玲さんは「跨越(かえつ)」をデカルコマニーで表現しました。

子どもの頃誰もがやったことがあるのではないでしょうか。
紙に絵具をたっぷりつけてから真ん中で折り左右対称にぺったんと絵具を付ける技法です。簡単なのに思わぬ美しい画面ができるので夢中になって遊んだ経験、ありませんか。

倉中さんは折り目を付ける方法ではなく別の支持体にぺったんしたそれを作品を描く支持体にさらにぺったんと絵の具をつけました。左右対称ではなくほぼ同じ形と色になります。絵具の量は次第に少なくなるし完全に形を写したのかと言うとそう言い切ることはできません。

似てはいるけど完全ではない。

絵に取り込んで、一方は水辺一方は雪原に見立てる。

同じ色と形が目や心を通って別のものとして捉えられる。
なんなら水も雪もH2O。
このからくりはいったい・・・。

ちょっと違えばどんどん違ってきてしまうのに「跨越(かえつ)」は可能か否か。

鷺草ー倉中玲個展

この作品も「跨越(かえつ)」というテーマに沿った絵です。
少々重いテーマでもある今回の個展の作品群の中でテーマを除いても楽しめる絵だなと思います。

鷺草の向こうに飛ぶ鷺。
やはり「跨越(かえつ)」

夏の湿地に咲く可憐な花にテーマを見た倉中玲さんのしなやかな発想が素敵です。

 

跨越(かえつ)ー倉中玲個展

 

「跨越(かえつ)」DMにもなった作品です。

藤は美しい優雅な花です。
藤の名所がこの季節たくさんニュースなどでも紹介されていますから、実際に見に行かれた方も多いことと思います。

この藤は人の手が入って藤棚のようにコントロールされていると気づきにくいのですが、蔓植物なのでどこまでも伸びていきます。
山にある藤は他の植物に絡みつき寄生こそしませんが取り込んでいってしまいます。倉中玲さんはそこに「跨越(かえつ)」を見るそうです。

美しい花と取り込むという実態と。
「跨越(かえつ)」の一筋縄ではいかないものを見るような気さえします。
どこか禍々しさも感じます。

あちらとこちらを跨いで越していくことは「いい」とばかりは言えない。
ではあちらのことは関わらないでいるほうがいいのだろうか。

倉中さんは絵を描くことでこの問題に自分なりの答えを見つけようとしている。

過流ー倉中玲個展

「過流」
渦巻いて流れること。

倉中玲さんは言葉の人。
作品のタイトルは当然のことながら、自分の持つイメージに最もふさわしい言葉をとても大事にしている。

そして「過流」
「彼岸」と「此岸」
分かり合えることは無いのか。分かり合いたい。

この個展のテーマである「跨越(かえつ)」
2つの世界を跨ぎ越える。

この絵は「渦潮」に近いものだと言います。
ただ実際の渦潮は決して安全なものではないのだけど、この絵のイメージは混ざり合ってよい方向にいくというポジティブな感覚なのだそうです。
渦の真ん中が明るい色なのはその表れだとか。

「葡萄畑の天使」
ストーリーの解説としての絵画作品ではなく、戯曲「葡萄畑の天使」の心象風景という構造も見えてきただろうか。

あげる、すてるー倉中玲個展

ある時倉中玲さんは知人からあるものを譲りたいと言われた。

知人はどれほどそれが倉中さんにふさわしく自分には不要かということを説かれたと言います。

倉中さんにとってはそれほど魅力的ではなかったあるもの。

知人は倉中さんが遠慮しないように自分には不要だということを力説したのではないかと推察しますが、力説すればするほど「あげる」は「すてる」なのではないかという思いが湧いてきたそうです。

事程左様に人と人とは完璧に理解することはありえない。

人と人とにも「彼岸」と「此岸」がある。
この場合は仏教的な現世とあの世と言う意味ではなく、あの「彼岸」と言う作品にあった川で隔てられたあちらとこちらと思っていただくとよいかもしれません。

1つの事に対する理解。
「葡萄畑の天使」にもその場面がある。
「あげる」と「すてる」ではないけれど、それに当てはまる場面がある。

完璧な理解はありえないあちらとこちら。

さてどう考えたらいいのだろうか。

彼岸ー倉中玲個展

「彼岸」あちら側。

この絵の真ん中あたりが川です。
川の手前は「此岸」こちら側。

こちら側とは自分のいる世界。
欲と煩悩の世界とも言われる。
なんだかわかる気もする。

「彼岸」あちら側。
川の向こう。
欲と煩悩から解放された世界らしい。
仏教では極楽という世界。

知らない世界。
わくわく憧れ。
それでも知らないことに、わなわな恐れる。

さてここから「跨越」は始まる。
彼岸と此岸に跨り越える。

できるだろうか?
できるとしたら、何がどうできるのか。

倉中玲はどう考えどう作品にしたのか。
その答えが今プリズムに、ある。

辻將成展ー最終日

「辻將成展」は本日最終日です。
ブレイクダンスを作品にする、痕跡。
これからの進化から目が離せません。

次回は5月2日(木)-12日(日)*火日休廊、「跨越(かえつ)ー倉中玲個展」です。戯曲と絵画の融合とは?

「描く」ではないー辻將成展

「辻將成展」も明日が最終日となってしまいました。
この投稿が展覧会内容としては最後の投稿となります。

いかにもダンスを踊っている人のように見えるので多くの人は辻作品について「描く」という表現をしていますが、プリズムの投稿の中では一度も「描く」と言う言葉を使っていません。

何度もここで書いてきましたが辻作品はダンスの痕跡を制作しているのであって足や手で描いているのではないからです。

支持体にダンスを踊るためのだいたいの目安となるラインに絵具を置いていきます。ここが唯一意図的に「描く」に近い行為です。

そのあと支持体の上でブレイクダンスを踊る。
痕跡を残すことが辻將成の制作です。

痕跡を残すは、「描く」ではありません。
絵的に美しくしたいのならいくらでももっとドラマチックな画面を作ることができますが、辻さんが思い描いたダンスができたかどうかが重要なので余分な創作はしません。もしそうしたらそれはもう痕跡ではなくなります。

痕跡をどういう方法で残すのかこれからも飽くなき追及は続きます。