FACE(F6)ー小山剛アクリル画展

人物(顔)と風景で今回の小山剛さんの個展は構成されています。

人物は学生時代からずっと追っているいわばメインテーマです。
人物と言うモチーフから小山さんが何を描こうとしているのか。それは生命です。「いのち」とは何か。どんな意味があるのか。自分にとって、他者にとって。身近にあるのにとてつもなく深い。

描いても描いても描き足りない何か。見ても見ても完全には見えてこない何か。

描けば見えてくるのか。見えてくるはずだ。でもまだ見えきってはいない。

小山剛アクリル画展ーいのちの息吹

洋画家小山剛さんのアクリル画の展覧会です。
プリズムでは初めてですがもう個展の経験も豊富な画家さんです。

人物画と風景画で構成された個展になっています。
なぜ人物と風景なのか?そこには作家にとっての必然性がありそうです。

11月1日(金)午後5時30分からギャラリー内にてアーティストトークも予定しています。(予約不要・入場無料)是非こちらもお出かけください。

その他作家在廊予定は下記のとおりです。
10/31,11/2,3,4,7,9           12:00-19:00
11/1,6,8                            16:00-19:00
11/10                                13:30-17:00

*火曜定休

御囲章木版画展「なんとかなってる」ー最終日

本日「御囲章木版画展ーなんとかなってる」は最終日です。(午後5時まで)
2年後2026年10月に次の個展を予定してくれています。「なんとかなってる」はその後どうなっていくのかみなさんも楽しみに待っていてください。

次回は10月31日(木)より洋画家小山剛さんの個展「いのちの息吹」を開催します。11月1日(金)午後5時30分よりアーティストトークも開催します。(予約不要・入場無料)是非お出かけください。

解った瞬間ー御囲章木版画展

10月19日のブログで今回の個展では御囲章さんが「柔らかい仕上がり」になるように心がけたということを書き、私は「それに御囲さんは満足できたのだろうか?」などとかなり不遜なことを書きました。

御囲さんは会期中開店と同時にプリズムにいらっしゃり終了時間に帰られるという毎日でしたので、お客様とお話しするか絵と向き合うかの時間でした。

最終日2日前の昨日そのあたりのことを聞いてみました。

刷り上がったときはいつもダメ出しばかりで落ち込みます。落ち込んではいられないので刷り上がった作品はさっさとしまい込んで忘れようとするかのように次の作品に向かうんです。個展前になって額装のために作品をもう一度出します。会場に並べてもダメなところはやっぱりダメなんです。でもこうやって毎日ここ2年間に作った作品に囲まれていると相変わらずダメだと思う部分もあるけど、そうばっかじゃないぞ悪くないんじゃないと思うところが見えてくるんです。

柔らかい仕上がりについても悪くないなと思う一方、もう少し何とかしないとと思う部分もあります。まだしばらくそこに着目して制作していってもいいんじゃないかと思っています。

とのことでした。

最も大事なテーマについてはぶれない人です。
次の2年はもう始まっているようです。

止むに止まれずー御囲章木版画展

「止むに止まれず」の事情はそれぞれ違う。
そんなことはそんな切羽詰まった気持ちにはならないという人もいるだろう。別の事情でそんな気持ちになることもある。

この絵=版画からその事情を読み解くことはできないし、何ならここから「止むに止まれず」の気持ちを想像することすらできないって思う人もいるだろう。
少なくとも私はわかってはいない。

そもそも自分の意志など木っ端みじんに砕いて突き進まれる心の状況が「止むに止まれず」なんだから、わかろうとしなくていいのじゃないだろうか。

御囲章さんの「止むに止まれず」を絵=版画にするとこうなんだな、と、思う。
「目」の感受性も「心」の感受性も同じ人なんてどこにもいないんだから。

自分の見え方ー御囲章木版画展

御囲章さん、以前の個展のブログでも書きましたが、目に障害があります。
皆さんと同じ見え方ではないのです。生まれたときからのものなので彼自身は今の社会で生きていくための工夫はずっとしてきました。それが彼の中では当たり前になっています。

「目」のことに関して言えば、色の感受性には差があるとはよく言われることではあります。形の見え方についてはあまり聞きませんがそれだってきっと少しずつ違うのではないでしょうか。科学的にどうかは知りませんが、そうであることが不思議ではありません。

「目」だけだって感受性に違いがあるのだから、ものの考え方や物事の受け取り方には違いがあるのは当然の事。

「自分の見え方」
このタイトルを見たとき、御囲さんが作品を作り続ける理由の一部がわかったような気がしました。

「視点」と言う言葉があります。
第一には実際に「物」を見るとき視線を注がれるところと言う意味です。
そこから拡大して「物=物事」までいきます。どこに注目して考えるかということです。
「視点」を全部の人が揃えるなんてことできるわけがありません。

御囲さんはご自分の「目」とずっと付き合ってきた。他人と自分は同じではないようにあの人とこの人も違うかもしれない。ましてや心の感受性がみんな同じなんてことがあるはずもない。そう思って人と人の関係を見ていくと面白い。そんなことを「絵=版画」で伝えたい。それがずっと御囲さんの制作の肝なんです。

蛇足ながら、御囲さんが作った同じ1点の版画。御囲さんとあなたと同じには見えてないんですよ。あなたと私も、御囲さんと私たちほどはではないけれど、同じように見えていないのだと思います。

 

意見の一致を図るー御囲章木版画展

今回のDMになった作品です。

「意見の一致を図る」
十人十色とはよく言ったもの。満場一致なんてそもそもあるのだろうか。あったとしても心の中にはいろいろな思いが錯綜している。この絵の花々もいろんな方向を向いているものね。

社会が複雑になれば物事はシンプルにはすすまない。人と人との関係はなかなか難儀です。それでもいい方向ななんとなく向かっていけるのならいいってことかな。

自分らしさとはー御囲章木版画展

先日来技術的な話ばかりになっていたけれど、最も大事は作品の本質的なことを掘り下げてみようと思います。

植物的なモチーフではあるけれど、植物を描いているわけではない。

自然界を見回してみると、植物が繁茂しているところではいろいろなことが起きています。成長の先がぶつかることがある。うまいことお互いが回避することがある。元々小さくしか育たない種のそばに大きな種が発芽して日陰を作り小さな種が絶えることもある。日影があるからこそ育つ種もある。同種の植物を見たって個体が持つほんのちょっとした生命力の差が生き死ににまで大きくかかわることだって自然界には当たり前のようにある。

人の世界にも似たようなことがあるのではないだろうか。
強面の人からはできるだけ離れていようとするし、仲良くできそうな人には積極的に近づこうとするではないか。

植物だって人だってそんなアクションには必ずエネルギーを必要とする。
御囲章さんにとってそれはとても興味深くおもしろいことだったから絵(版画)にしたのだ。

植物と人は全く同じだと言っているわけではない。ただ、どこか本質的に重なる部分があってそれが彼の創作の源になっているってことを知っていただきたいと思うのです。

微妙な距離感ー御囲章木版画展

作家にとって制作上の悩みは尽きない。
テーマについての取り組みは常に自問自答の日々が続くのは当然のこと。
当然と簡単に書いてしまったけれど、これは本当に深く思い問題。最重要案件なんだけど今日はここは置いておくことにします。

その他に画材問題は大きい。
ここ数年御囲さんにとっては版画家の命ともいうべき版木問題がある。
多くの木版画家は「木=木目」の特性を生かしていく人が多い。一方御囲さんの緻密な画面では「木目」が邪魔になることがあり、それを解消すべく現在の版木に移行したのがほぼ2年前。

長年使ってきた版木からの移行は難儀なことでした。
まず「彫る」と言う作業。右手でしていた作業を左手でやるに等しいくらい手が慣れないのだそうです。2年たってもまだしっくりこない。

それだけでなく、「木目」は解消したのだけど彫り残した線にインクを乗せて刷ると線が今までのようにくっきりは出ない。柔らかい画面にしたかったのだからいいように思うが、この線の出方が理想ではない。

今の版木で自分の理想に近づけることができるのかどうか。理想の線が出たとしてそれが画面全体に効果的なのか。線ではない何かでそこをフォローすべきなのか。まだまだ格闘の日々だそうです。苦しくも楽しい時間なのに違いない。

栄えて久しいー御囲章木版画展

この個展の搬入の日、作品の梱包を解いて続々と作品の全容が見え始めたとき、今までと何かが違うと思いました。そもそも自分の目のピントが合っていない気がしたのです。

ピントが合っていないように思ったのは飾りつけが始まって1時間もするとすっかり忘れてしまうほど気にならなくなりました。

こんな経緯を話すと、「この絵に限って言うと、黄色に白を混ぜて黄色の強さを押さえたんです」と。

他にもあって今までとは違う見え方になったのは今までとは違った仕上がりになる工夫があってのことだったのです。

少し柔らかい仕上がりになった。

御囲章さんの作品はコントラストの強さがこのくらいという過去の私の中でのデータがそう見ようとした結果ピントが合わないような気がしたのでした。

柔らかい仕上がりにしたのだから知っていたくっきりさになっていないのはあたりまえのこと。黄色に少し白を入れたのもそう見せるための工夫だったということです。

何ゆえに?

くっきりしすぎているのではないか。一度柔らかい表現にしてみようと思ったから。で、それは御囲さんにとって満足できたのだろうか?そのあたりについては明日以降深堀したいところです。