鉱さんは三河弁の人-鉱さん、またね

難しい哲学や宗教を深く考える板倉鉱司さんはは三河弁の人です。
ここまでのブログでは鉱さんの言葉はほぼ標準語で表現してきましたが、実際にはなかなかな三河弁でした。
「鉱さん」という呼び名もプリズムでは本当はあまりなじみがなく「板倉さん」と呼ぶのが通常でした。でもご家族を初め地元の方々は「鉱さん」でした。生家でも鉱さんのお父様、それと鉱さんの息子さん以外は子供のころから「鉱さん」だったそうです。奥様も「鉱さん」と呼んでいます。

「ほだらぁ」「~じゃんねぇ」「~いいだよねぇ」
素朴な三河弁が人に警戒心を与えない。
まさかリルケや哲学が頭の中で繰り広げられているなんて思いもしない。
三河弁の人がものを考えないと思っているわけではない。でもそういう時って標準語で考えていそうな気がしてた。

鉱さんは真理を追究するときもきっと頭の中は三河弁で考えていたのだと思う。
「空に星がいっぱいあるだらぁ。おんなじように自分たぁの頭の中にはどんだけあるかわからんくらいいっぱい思うことがあるだよねぇ。」きっと「鉱さん」として三河弁で考えていた、と私は思いこむ。

適当に切った(ように見える)三角を組み合わせた山羊(兎と見える人もいる)が星を持っていたりする。まれに月なんか抱えていたりして。
そうやって考えたことを作品にしていたんだね。だから「リルケの詩を形にしただけ」なんて言ったんだね。きっとそれは本音だった。

哲学も宗教も全然むつかしくないらぁ。当たり前のことしかそこには無いだもん。
それでも神様が自分にとって本当にいるのかどうか一生かかって自分と向き合ってわかったんだね。

・・・・なんか鉱さんずるいわ。
難しいことなんか全然考えていないみたいだったもの。
そんな鉱さんにいきなり「リルケ」なんて言われたって「ちょっと何言ってんだかわかんない」ってなるよ。やっぱり結構難しいよ。

だけど鉱さんは本気だった。だからこんなにたくさん作品を作ってみんなに伝えようとしたんだと思う。残された作品を観てみんなで一生懸命考えるからね。私たちは三河弁とうわけにはいかない。だけどそれぞれが使い馴染んでいる言葉で鉱さんの作品を観て考える。

鉱さん、ありがとう。

*明日7月20日(日)「鉱さん、またね」は最終日です。

絶筆ー鉱さん、またね

2023年9月に板倉鉱司さんの最後の個展がプリズムでありました。
その前の年の秋余命宣告を受けていました。6月がリミットと言う厳しい宣告でしたが、「そんな気がせんじゃんねぇ」と明るく話してくれていたのでその言葉のノリで「9月に個展やってね」とお願いしました。「いいよ」と明るく返してくれたもののこれは果たせないのかもしれないなと言葉とは裏腹な気持ちでいました。

余命宣告は何だったのだろうと思うほど元気で(そうでない日もあったに違いないのだけど)たまにギャラリーにも顔を出してくださっていました。暑い夏の間も9月に向けて制作を続けてくださいました。

その個展の搬入を終えるといつもなら何度となく在廊してくださるのですが、とうとう最後の日にやっと顔を出してくださいました。少し体力を落としていらっしゃるご様子でした。
その日「やり切った」とおっしゃったそうです。

この個展のどの日にか「聖書には無駄な言葉が無かったってわかったよ」と鉱さんはおっしゃいました。3日前のブログに鉱さんが「神様なんているかどうかわからない。」とおっしゃっていたその答えだったんだと思います。

個展から1か月、鉱さんは神様のもとに旅立たれました。

鉱さんの希望をご家族が受け止めて、最後の日までおうちで過ごされました。
ある日訪問看護の方に「時間を持て余す」と伝えると「好きなことしてていいんだよ」と言われて絵を描き始めました。旅立つ10日前の事でした。庭のオリーブの枝を毎日一枝ずつ描きました。3日前までちょうど7点描いたところで体力が持たなくなりました。
ただ描きたいものを素直に描く。作家として板倉鉱司らしくなど何も考えずに美しいと思ったものを感動を持って描く。
「オリーブの枝と葉っぱの繫ぎ目がこんなにきれい病気で知った」の言葉も残っされていました。

蛇足ですが、意図せず作品は十字に展示しました。
後で指摘されびっくりしたのですが、これは鉱さんが天からのご指示だったのだと思います。

最後の絵を描いた次の日「聖餐式」を受けました。神様のもとに旅立つ覚悟を持って。
制作と信仰の鉱さんでした。

アンゼルム・キーファー「ソラリス」

私にとってこの世界に数多紹介されている芸術家の中で誰が一番ということは決めかねますが、片手のうちに入っている作家の1人がアンゼルム・キーファーであることは間違いない。

キーファー展「ソラリス」を観てすでに1か月以上が経ってしまった。何か書いておかなければと思いつつ頭の中で纏まってこないのだ。これはもう自分の中で纏まりようがないに違いないと意を決したというわけです。

もう20年ほども経つだろう。名古屋市美術館でキーファーの「シベリアの王女」に出会って以来特別な存在になっている。かの美術館には地元なので年に数回はこの作品に会っている。会うたびに見えるところが違う。会うたびにあの大きな画面のどこか1か所あるいは2,3か所しか目に入っていないことにある時気が付いた。見入ってしまうと10分でも20分でもその前から動けなくなるので、本展によっては意図的に会わずに帰ってくることもあるほど。

さて私はキーファーが大好きだと思っているにもかかわらず、キーファー作品に対峙したことは実は「シベリアの王女」と同じ名古屋市美術館の展覧会で1、2点テーマ展で観たことがあるのみ。

二条城での展示。
何か観光との絡みを感じ、観に行くことに若干の抵抗感は否めないのだったけれど、観ない後悔はしたくないので出かけた。

初頭に出かけた人から「天気が悪いと見にくいかもしれません」という情報をえていたのですが、行ける日はこの日だけと言う状況だったその日は運悪く土砂降り。最悪の天気に思えた。

館内に入ると案の定薄暗い中で作品は観づらい・・・。
と思いきや、目が慣れてくるとどんどん作品に引き込まれていく。天気が劇的に回復していくわけではないけれど、微妙に光の加減が変わるのは想定外の幸運だったのかもしれない。光の加減で見え方が変わるのは短時間で視点が変わる体験ができた。
さっき観た作品を振り返ってみるとまた別のところが観えてくる。「シベリアの王女」は観る日によって見えるところが違っていたのだけど、ここでは振り返るたびに見えるところが違う。それでも見えるところが違うという感覚は二条城でも名古屋市美術館でも同じ感覚を覚えた。
何だろう、この感覚。作品が雄弁と言うのはよく聞くけれど、キーファーの場合は多弁なのだろうか。

私の魂は十分揺さぶられ続けた。作品を目の当たりにしなければ絶対にわからない感覚。何度も館内を回り目が暗闇につかれると外の作品を観る。そしてまた管内の作品に対峙する。気が付けば1時間半ほどの時間が経っていた。体の疲れを感じても座る場所はない。これ以上見続けても集中できないと思い館を後にした。

実はキーファーがどう自分には観えるのかという自分への課題のほかにもう1つ自分の中のミッションがあった。
3年ほど前に亡くなった友人が私にあるものを託してくれた。それは江戸時代の女性文人(という書き方で合っているのか?)太田垣蓮月縁の品だった。あとに残されたご家族もその意図は全く聞かされてなかったという。
キーファーの作品の中に蓮月の短歌に呼応する作品があると日曜美術館での情報があったので読みとけたらと思っていた。蓮月に関しては手に入る書籍も少なく、それでも書籍も読んではみたけれど伝記のようなものであって短歌の解説や考え方の手掛かりはほとんどなかった。キーファー作品の中に何か手掛かりがあればと思ったがわかることは何もなかった。

キーファー作品はドイツ哲学とのつながりが深い。ドイツ哲学だけでなく禅それに伴い西田幾多郎の哲学とも深くかかわっているらしい。
ここでまたドイツ哲学と言う壁に出会う。そう、今プリズムで開催している板倉鉱司さんもドイツ哲学をこよなく愛した人。

キーファーの作品の中に「森」らしき空間がよく登場する。「森がなんでも教えてくれる」とリルケが書いていると板倉さんも言っていた。ドイツ哲学は「森」がキーワードだとK氏も言った。
「森羅万象」日本語だけど、ドイツ哲学の真髄なのではないか。

キーファー展が今1つ頭の中で纏まらないのは私がドイツの風土とそれに伴うものの考え方が自分の中に無いから言葉にならないのではないか。魂が震えたのは自分の感性がキーファーをキャッチしたからなのであって知識がないから言葉で考えることができないということなんだと今日の私は思う。

悔しい。知性でキャッチできないのは無知だからだということだけはやっとわかった。
キーファー作品を観ると「自分と対峙できているか」と厳しく突き付けられる気がする。
「知らなければ知る努力をせよ。」キーファーから私へのメッセージと受け取ろう。
*キーファー展は6月22日終了しています。

病と付き合うー鉱さん、またね

この写真にある辺りの作品はほとんど4年前の作品です。
この時の個展では今まで深い思いを飄々とした表現だったにもかかわらず人物の表情には険しいものがあります。
ここにはありませんが少年の頃に好きだったというシートン動物記の中にある「狼王ロボ」もありました。その「ロボ」も人間に挑戦するような存在だったので険しい顔をしていました。

どうしたのかなとは思いましたが、作家にはいろいろな変化があるのは当たり前のことなのでそこからどう変わっていくのかが気になっていました。

今思うと体調が思わしくなかったのかもしれません。
子どもの頃からの病気の治療が良い効果が出てきたとはいえ、実は別の病の影が見え隠れしていたりもしたのだろうか。

女性が持つ生命力を敵わないなとおっしゃっていたことも思い出されます。「ロボ」についても狼の中では超絶な能力を持ちながら1匹のメス(妻)の存在を利用されて人間に捉えられてしまうという結末にやはり悲しみを感じていました。

強い生命力へのあこがれがそこここに見えていました。

 

森が全てを教えてくれるー鉱さん、またね

初めて板倉鉱司さんがプリズムで個展を開いてくださったとき、「僕が作っている作品は全部リルケの詩が基になっている」とおっしゃったとき、私は何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

鉱さんという人を知れば知るほど底の深さに驚かされました。

鉱さんはクリスチャンです。彼を知った頃「神様なんて本当にいるのかどうかわからない。」とおっしゃっていました。世間でよく言うその言葉とはちょっと違うなと当時も思っていましたが、神学や哲学や文学を深く読みといていた鉱さんは自分の哲学の中で答えを見つけようとしていての言葉だったのです。

そんな中でのリルケだったのです。「リルケは森が全てを教えてくれるって書いている」と。それを形にしたのが板倉作品だと言うのです。

先日前々回の個展のときに取材してくださった新聞記者のKさんががこの展覧会を観に来てくださいました。4年前取材された後、鉱さんは「取材なんて緊張するしやだなぁと思っていたけど僕の事とってもよくわかってくださってとても嬉しかった。」とおっしゃいました。今回Kさんが大学でドイツ哲学を勉強していたということを知りました。そして彼は「板倉作品はドイツ哲学を知る者にとってはとてもよくわかる作品ですよ。ドイツ哲学はとても詩的なんです。」とも教えてくださいました。

もう少し知っておきたいな。リルケの詩この期間中3回目に挑戦しています。

 

銅版画ー鉱さん、またね

板倉鉱司さんが銅版画を始めたのはいつ頃だったのだろうか?
ご家族もよくわからないとおっしゃるところを見ると随分昔から制作していたのだろう。彫刻を始めたのとそう違わないのではないかということです。

彫刻自体かなり平面的な表現なので銅版画と大きな乖離が無いように見えます。

今日紹介する版画は残された作品の中では比較的古いのではないかと推測します。それは彫刻にも古いものに似た表現があることからの推察です。

版画も彫刻もほのぼのとしてどこか飄々とした作品ではありますが、鉱司さんの心の中には深いものがありました。ドイツ哲学への深い造詣が込められていることをたびたびお話しされていたことが思い出されます。

鉄の彫刻家になるー鉱さん、またね

板倉鉱司さんは20代半ばころに知人から彫刻家の掛井五郎さんを紹介されます。世界的な作家ですからご興味のある方は調べてみてください。

家業の鉄工所を手伝い始めたころでもあります。
掛井さんも鉄を使って作品を制作していたことから仕事場の鉄工所で掛井さんが制作するということになったのです。必然的に制作の手伝いをすることになりました。

どうやって鉄の彫刻を作るのかノウハウを知ることにもなりました。

自分でもやってみたいという気持ちがむくむくと湧き上がってきたのでしょう。それからは絵よりも彫刻の日々になりました。
板倉作品は掛井作品の影響を受けていることはとてもよくわかります。
掛井さんからは「君は彫刻を作るな」と言われたこともあったとか。鉱さんの才能に掛井さんも脅威だっかのかななんて思ってしまうエピソードです。

鉱さんは掛井さんをとても尊敬していました。師の背中をずっと追いかけていたのかもしれません。

絵を描いていたー鉱さん、またね

板倉鉱司さんは小さい時から体が弱かったので、ウチの中で絵を描いて過ごすことが楽しい時間だった。

大人になって家庭を持っても偏頭痛に悩まされる日が多く仕事も休みがちだったのだけど、休んだ日に体調が回復してくるとやっぱり絵を描いていたと板倉夫人は言いました。夫人が鉱さんに体調を気にしつつ勤務を終えて帰ると楽しそうに絵を描いていたことを今でも思い出すのだそうです。

30歳くらいまではよく絵を描いていて、個展まで開いたというからかなりのめり込んだことが伺えます。

この絵でもわかるようにオイルパステルが主な画材だったらしい。外国製のたくさん色数のあるオイルパステルのセットを大事に使っているのを夫人の朋子さんは記憶しているとか。

体調はなかなか上向きにならず体調に合わせて仕事ができるように親族と仕事を共にするようになったのです。その仕事が鉄工所だったことがその後の展開に大きくかかわってくることになるのでした。

 

鉱さん、またねー板倉鉱司/彫刻・銅版画・ドローイング遺作展

プリズムのお客様にもそして作家仲間の方々にも、多くの方に愛された板倉鉱司さんが皆さんとお別れしてからこの夏が過ぎると2年が経つことになります。

この度ご遺族の皆さんと遺作展を開くことになりました。

鉄の彫刻家としてプリズムでは紹介してきましたが、初期には絵を描いていました。メインが彫刻になっての後に銅版画も始められそして最後の時間はドローイングを楽しんでいたとのこと。どの時期にどんな作品を制作してきたのか時間を追っての紹介は作品の整理をしてもわからないことだらけで叶いませんでしたが、とにかく観ていただきたいという思いで展示をさせていただきました。

追って毎日のブログで詳細を書けるだけ書きますが、ご家族もわからないことだらけだとおっしゃていましたのでどれほどお伝えできるか心もとないことです。

作品を観ていただくことでそれぞれがそれぞれの思いを持っていただければ幸せに思います。

本当はもっともっとたくさん残っていたのですが、運搬の都合により大きな作品は持ち込んでいません。展示されている作品はご希望があればどれも販売可能です。

林孝子雅羅素展ー最終日

「林孝子雅羅素展」は本日(7月6日)最終日です。
今年は時計と鏡。特異な発想は毎回驚きばかりです。
2026年もこの6月から7月にかけて孝子さんの個展を開催予定です。来年は何を見せてくださるのか楽しみに待っていてください。

次回は一昨年逝去された鉄の彫刻家板倉鉱司さんの遺作展です。
初期の水彩画から代表的な鉄の彫刻・銅版画、絶筆となったドローイングまでアトリエに残されていた作品を観ていただきます。

「鉱さん、またねー板倉鉱司/彫刻・銅版画・ドローイング遺作展」
2025年7月10日(木)-20日(日)*7月15日(火)休廊
正午ー午後7時(最終日は午後5時まで)
〒461-0001名古屋市東区泉1-14-23ホワイトメイツ1F