
言語化されなかった思考は、心の底に澱として沈んでいく。快い事柄は言葉になりやすい。
しかし苦や不快を帯びたものは、言語化のインセンティブを持たないまま、静かに堆積していく。
描くことは、その澱に言葉を与えることではなく、描く時間そのものが、澱が濾過される場として機能している。それは動的な行為ではなく、その過程のための静的な構造だ。
描く時間は、吹き寄せる風であり、その場でもある。
Thoughts that never became language sink to the bottom of the mind as
sediment. What is pleasant tends to find words. But what carries pain or
discomfort settles silently, without the incentive to be named.
Painting is not an attempt to give those sediments language. The time of
painting is itself the place where they are filtered — not a dynamic act, but a
static structure for the process to occur.
That time is the wind that gathers, and the place where it settles.
(倉中玲)
あまりに飛躍的な制作上の進歩に目がいきすぎてこの個展の本質を見失うことになってはいけない。
「吹き寄せられた先で」はこの個展のテーマである。
「抑圧」は上からの圧力をかけられているように思われがちだけど、この世で抑圧されるとは隅っこに吹き寄せられていくのに似ていると倉中玲さんはイメージする。
スコットランドの絶え間ない強風に吹かれていると、塵芥は吹き上げられ隅っこに押しやられてたまっていく。自分がその風の中に居ればすべての澱を吹き飛ばす清々しささえ感じる風だけど、実際には隅っこに塵芥の吹き溜まりを作る。
そんなふうに世の中には吹き溜まりに押しやられることがある。そのままではいられないならその風を自分の中でどうしていったら清々しさにまでなれるのか。
作品はあたかも風に吹き上げられる塵芥や澱のごとく会場の壁に展示しました。
時にひとところに吹き寄せられつつある塵のように。それでも風が少し静まってポツンと置き忘れられているように。
絵の内容とともに作品のレイアウトにも目を向けていただけると嬉しいです。
