冬を駆けるー小山剛アクリル画展

洋画家小山剛さんはほとんどの絵をアクリル絵の具で描きます。洋画家がほぼ油絵具を使う中で少し異色の存在かもしれません。

なぜアクリル絵の具を使うのか?
油絵具も使っていたけれど、小山さんが中学生の時出会ってしまったアクリル絵の具は当時夢の絵具と言われていました。使い方によっては水彩画のようにもパステル画のようにも油絵のようにも描けるという触れ込みでした。

50年近く前のことです。
当時は「夢の絵具」と言われながら開発途上で不備もあった。
それでも開発は日々続けられ、今では随分「夢」に近づいています。

あんなに夢中になってアクリル絵の具の使い方を研究した日々。
自分ほどアクリル絵の具の進化を見続けたものはいないだろうという自負のもと、今でもというか今はというか使っているのです。というのはやっぱり油絵具で描いていた時期もあるから。

人によっては絵具をランク付けすることもあります。日本画の絵具を頂点に油絵具・アクリル絵の具・パステル・水彩絵の具・・・。
それも小山さんにとっては片腹痛いこと。絵具に優劣などない。
もし表現の上で油絵具に叶わない何かがあるとしたらそれを克服すべくアクリル絵の具の使い方を考えればいいし、アクリル絵の具でしかできない表現を追求するのもいい。

小山さんにとって今回の個展のタイトルに「アクリル画展」と入れたのには大きな理由がありました。

「人類の歴史の記憶」を大作に描きこんでいる小山剛さん。
小品に描かれて人物にも通じるテーマでもあります。

目から入る情報が頭に蓄積される。
描かれている人物の目にはその手掛かりになるのかと思われる何かが描かれています。そう思うと目のに映っている何かが気になって仕方がなくなる。

「人類の歴史」といっても大上段に構えた歴史の大きな流れと言うものだけではなく、ひっそりと生きてきた人々の歴史もあろう。それだって「人類の歴史」だ。だからこの目に映っている何かは誰もが知っている何かとは限らない。それでもその「記憶」はその人にとってとても大事な何かなのに違いない。

「記憶」は具体的なものもあるし、抽象的なものもある。
具体的な出来事やモノの場合もあるし、抽象的な感情のこともあるだろう。

人物の目から目が離せない。

時の積層を見つめる人ー小山剛アクリル画展

小山剛さんが所属する公募団体「新制作」での展覧会ではここ数年このシリーズを出品しています。メイン中のメインとなる作品です。大作でこちらも100号で今回の出品作品中最も大きな作品です。

人物画
人類の歴史が人の頭の中で記憶として残っているならというイメージで描かれた絵です。
人一人の記憶だって膨大なのに人類の記憶の積み重なりとなれば小山さんが一生をかけて描いても描き切れない膨大なテーマでもあります。

人が生きている。生きていた。生きていく。
人であることを意識した時から始まる大命題を小山剛的に絵で表す。

公会堂-小山剛アクリル画展

風景画
小山剛さんにとってはメインテーマではないものの大切な画題。

人物画がメインであり、人物画に対しては「戦う」という意識がある。
真っ向勝負の厳しい気持ちの中で自分の絵に対してそう簡単にOKは出せない。考えに考え抜いたうえでの制作。ある意味手あかがいっぱいついた領域なのだそうです。

一方風景画は絵を描くことが好きだと意識し始めた中学生の頃から得意であり、教科書で知った遠近法など研究してうまくいったときの喜びはとても新鮮だったと言います。絵が上手だった子供の多くが経験することでもあるかもしれません。

メインである人物画を描いていてともすると重くなってしまう「絵を描くこと」
風景画を描くとあの頃の新鮮な気持ちが蘇るのだそうです。

そうするとまた人物画に対して新たな気持ちで取り組める。
小山さんにとってどちらも大切な領域ということです。

ここで1つ面白エピソード。
今回の個展の作品25点の中の1点に「prism」という文字が隠れています。
探し当てた方には何かほんのちょっといいことをプレゼントします。

FACE(F6)ー小山剛アクリル画展

人物(顔)と風景で今回の小山剛さんの個展は構成されています。

人物は学生時代からずっと追っているいわばメインテーマです。
人物と言うモチーフから小山さんが何を描こうとしているのか。それは生命です。「いのち」とは何か。どんな意味があるのか。自分にとって、他者にとって。身近にあるのにとてつもなく深い。

描いても描いても描き足りない何か。見ても見ても完全には見えてこない何か。

描けば見えてくるのか。見えてくるはずだ。でもまだ見えきってはいない。

御囲章木版画展「なんとかなってる」ー最終日

本日「御囲章木版画展ーなんとかなってる」は最終日です。(午後5時まで)
2年後2026年10月に次の個展を予定してくれています。「なんとかなってる」はその後どうなっていくのかみなさんも楽しみに待っていてください。

次回は10月31日(木)より洋画家小山剛さんの個展「いのちの息吹」を開催します。11月1日(金)午後5時30分よりアーティストトークも開催します。(予約不要・入場無料)是非お出かけください。

解った瞬間ー御囲章木版画展

10月19日のブログで今回の個展では御囲章さんが「柔らかい仕上がり」になるように心がけたということを書き、私は「それに御囲さんは満足できたのだろうか?」などとかなり不遜なことを書きました。

御囲さんは会期中開店と同時にプリズムにいらっしゃり終了時間に帰られるという毎日でしたので、お客様とお話しするか絵と向き合うかの時間でした。

最終日2日前の昨日そのあたりのことを聞いてみました。

刷り上がったときはいつもダメ出しばかりで落ち込みます。落ち込んではいられないので刷り上がった作品はさっさとしまい込んで忘れようとするかのように次の作品に向かうんです。個展前になって額装のために作品をもう一度出します。会場に並べてもダメなところはやっぱりダメなんです。でもこうやって毎日ここ2年間に作った作品に囲まれていると相変わらずダメだと思う部分もあるけど、そうばっかじゃないぞ悪くないんじゃないと思うところが見えてくるんです。

柔らかい仕上がりについても悪くないなと思う一方、もう少し何とかしないとと思う部分もあります。まだしばらくそこに着目して制作していってもいいんじゃないかと思っています。

とのことでした。

最も大事なテーマについてはぶれない人です。
次の2年はもう始まっているようです。

止むに止まれずー御囲章木版画展

「止むに止まれず」の事情はそれぞれ違う。
そんなことはそんな切羽詰まった気持ちにはならないという人もいるだろう。別の事情でそんな気持ちになることもある。

この絵=版画からその事情を読み解くことはできないし、何ならここから「止むに止まれず」の気持ちを想像することすらできないって思う人もいるだろう。
少なくとも私はわかってはいない。

そもそも自分の意志など木っ端みじんに砕いて突き進まれる心の状況が「止むに止まれず」なんだから、わかろうとしなくていいのじゃないだろうか。

御囲章さんの「止むに止まれず」を絵=版画にするとこうなんだな、と、思う。
「目」の感受性も「心」の感受性も同じ人なんてどこにもいないんだから。

自分の見え方ー御囲章木版画展

御囲章さん、以前の個展のブログでも書きましたが、目に障害があります。
皆さんと同じ見え方ではないのです。生まれたときからのものなので彼自身は今の社会で生きていくための工夫はずっとしてきました。それが彼の中では当たり前になっています。

「目」のことに関して言えば、色の感受性には差があるとはよく言われることではあります。形の見え方についてはあまり聞きませんがそれだってきっと少しずつ違うのではないでしょうか。科学的にどうかは知りませんが、そうであることが不思議ではありません。

「目」だけだって感受性に違いがあるのだから、ものの考え方や物事の受け取り方には違いがあるのは当然の事。

「自分の見え方」
このタイトルを見たとき、御囲さんが作品を作り続ける理由の一部がわかったような気がしました。

「視点」と言う言葉があります。
第一には実際に「物」を見るとき視線を注がれるところと言う意味です。
そこから拡大して「物=物事」までいきます。どこに注目して考えるかということです。
「視点」を全部の人が揃えるなんてことできるわけがありません。

御囲さんはご自分の「目」とずっと付き合ってきた。他人と自分は同じではないようにあの人とこの人も違うかもしれない。ましてや心の感受性がみんな同じなんてことがあるはずもない。そう思って人と人の関係を見ていくと面白い。そんなことを「絵=版画」で伝えたい。それがずっと御囲さんの制作の肝なんです。

蛇足ながら、御囲さんが作った同じ1点の版画。御囲さんとあなたと同じには見えてないんですよ。あなたと私も、御囲さんと私たちほどはではないけれど、同じように見えていないのだと思います。

 

意見の一致を図るー御囲章木版画展

今回のDMになった作品です。

「意見の一致を図る」
十人十色とはよく言ったもの。満場一致なんてそもそもあるのだろうか。あったとしても心の中にはいろいろな思いが錯綜している。この絵の花々もいろんな方向を向いているものね。

社会が複雑になれば物事はシンプルにはすすまない。人と人との関係はなかなか難儀です。それでもいい方向ななんとなく向かっていけるのならいいってことかな。