横尾忠則の時代ー戦争体験

「焼夷弾が落ちる中水槽の金魚が美しかった」という思い出が田名網敬一さんの作品には反映されているというエピソードがある。この話は私の中で特別なものとして残っている。人は時としてその状況とはかけ離れたその人だけが持つ強烈な感受性を発揮することがあるのだということ。

今回の出品者は全員戦争体験者である。
このことの影響が全くないという作家はおそらくいないのではないだろうか焼夷弾が落とされる中を逃げまどったり、今日の空腹を満たす術も持たなかったり。つまり生命の維持さえままならなかったという体験なのか、あるいは貧しくとも生命の危機にはなかったのか。それぞれの状況は違っていたのだろうけれど、みなその時代に生きた人々なのだ。

私にはその体験がないので確信がつかめないのだけど、とても気になる。
この展覧会を観に来てくださった方々と時代背景などの話をしていて、この5人の作家は確実に歴史の中にいた人々なのだと思う。それは古臭いという意味ではない。戦争はもちろんいけないことだけれど、これらの作品から教訓めいたことをくみ取ろうというのでもない。

あの日のあの時の感受性はずっときっと作品の中に生き続けていて、それはもしかしたら作者でも気づかないのかもしれないけれど。
もしかしたらこれはその欠片なのかもしれないと思うと、胸に迫るものがある。

横尾忠則はなぜ生まれたのか

横尾さんはパワフルだ。
いつもいつもずっとずっとパワフルだったし、これからもきっとパワフルなんだと思う。

少し時が違っていたら世に出なかった人なのだろうか?
私はそうは思わない。

横尾さんに対する知識が全くなくて回顧展を見たら、同じ人の作品だと思えないほど、作風は違ってきている。ずっと横尾作品を見続けているからなのどうかはわからないけど、私はそれが違和感なく受け入れられる。

息を吸うように時代を受け入れ、息を吐くように作品にする。
時代に合わせようとか、合わせなければという無理が全然ない人ではないだろうか。だからこそ素直に時代を反映した作品になるのではないだろうか。もちろん制作の苦悩はあるだろうけれど、とても素直な人なんだと思う。

「うろつき夜太」も「デジタル版画」も自分にとってその時代の一番楽しい作品創りをした結果なのだろう。

まだまだもっともっと絵を描き続けるんだろうな。

獅篭落語会のお知らせ

すでにFacebookページやTwitterからお知らせしておりますが、下記のよう「獅篭落語会」を開催いたします。

雷門一門は登龍亭と名を改めたのでしたが、COVID-19の蔓延で襲名披露も晴れ晴れしくとはいきませんでした。そしてそのまま6月に予定されていた獅篭展も延期ということになってしまっていたのです。この度ようやく「獅篭展2」を開催の運びとなりました。2019年獅篭展は「雷門獅篭展」でした。獅篭にとっては2回目の個展ですから2021年は「登龍亭獅篭展2」とさせていただくことにしました。
登龍亭獅篭は落語家です。絵も描ける落語家です。絵だけ見ていただくのでは獅篭を知ることにはなりません。個展会場で落語も聞いていただきましょう、ということでギャラリーで落語会を開催いたします。それも会期中毎日落語会。時節柄会場を満員にすることができませんので1日10人までの限定です。ご予約の上ご来場をお願いいたします。
開催日時     4月15日(木)~24日(土)*20日定休日
         開場午後5時30分開演午後6時
会場       名古屋市東区泉1丁目14-23ホワイトメイツ1F                            ギャラリースペースプリズム
入場料      1回参加  2,000円
         2回参加  3,500円
         3回参加  4,500円
         4回目以降は1回500円
予約       入場制限がありますので要予約
         052-953-1839
withsns.prism@gmail.com
満席など新しい情報はその都度こちらのFacebookページを更新しますのでチェックしていただけると幸いです。
毎日の会ですが、出し物は毎日変わるとのことです。
またゲスト日替わりです。
15日 立川こしら
16日 立川こしら
17日 立川こしら 旭堂鱗林
18日 旭堂鱗林
21日 旭堂鱗林
23日 旭堂鱗林

*ゲスト随時更新予定。

※定員…各回ご予約10名(ソーシャルディスタンス確保のため予約制)

田名網敬一ー横尾忠則の時代

1970年代は華やかだった。
雑誌を開けばショッキングピンクや蛍光色にあふれていた。そんな色をこれでもかと詰め込んだようなヴィジュアルをサイケデリックともてはやした。ヒッピー文化が最高にかっこよかった。横尾忠則さんも田名網敬一さんもサイケの旗手のような存在だった。あの頃のポスターは今見ても私なんかは「いいな」と思うのです。

さてその田名網さんの版画集。
バブル経済もほぼ終焉という頃、版画集「森の祝福」は出版されました。オール特色オフセット30枚セット。特色(4色分解ではなく全部の印刷インクはインクの状態で色を作る)という贅を極めた印刷です。何色あるのか数えたけど途中で分からなくなるほどの色数でした。鮮やかな色を表現するにはこれが一番なのです。
そして極めつけはその鮮やかな色に負けない造形力。これは実物を見ていただくしかありません。

作品の下に置いてある箱の中に今も15点ほどの版画が入っています。
運が良ければご覧いただけます。

 

宇野亜喜良ー横尾忠則の時代

宇野亜喜良さんと横尾忠則さんも深い仲です。
1964年原田維夫と3人で「スタジオ・インフィル」を設立し一緒にグラフィックデザイナーイラストレーターとして活動をすることとなりました。

そこに起こったエネルギーはどんなものだったか。日本が世界に追いつけ追い越せの時代です。ただでさえ熱い時代にこんな3人が一緒に仕事するのですから、さぞかしひりひりするような時間だったことでしょう。

現在80代も後半だというのに全く衰えないお二人の創造力には、今も驚かされるばかりです。

休廊日ー横尾忠則の時代

「横尾忠則の時代」展は変則的スケジュールにさせていただいています。

明日3月29日(月)と30日(火)は休廊日です。

大変申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

早川良雄ー横尾忠則の時代

昨日紹介した灘本唯人さんは早川良雄事務所で早川先生の片腕として力をつけていったという経緯があります。早川先生も関西のご出身ですから当然横尾忠則さんとの接点は多くあったと思います。

この作品は晩年にできる限りの作品のアーカイブを制作するという目的でできるかぎりのデジタル化をしました。その時に一部デジタル版画(レプリカ)にして展覧会をした時の1点です。
当時の最高の技術を駆使したもので原画と見まごう再現性は今でも驚きます。

 

灘本唯人ー横尾忠則の時代

横尾忠則さんは兵庫県西脇市のご出身です。
高校卒業後神戸新聞のデザイン部で働くのですが、そこに推薦したのが灘本唯人さんなんだそうです。

グラフィックデザインの黎明期だった。
「横尾ちゃん、東京に行かなくちゃだめだね。行こうか。」と灘本先生がおっしゃったかどうかは知りませんが二人は東京を目指すことになるのです。

関西から日本のグラフィックデザインを見つめて上京し、以後お二人ともトップを走り続けたのでした。

灘本先生は亡くなられて間もなく5年になります。
横尾さんより少し年上できっと上京後も何くれとなく気を使われたのではないでしょうか。灘本先生とはそういうお方でした。

横尾さんの視点がグローバルなら、灘本先生は昭和の人情みたいなものをよく見ていらっしゃったように思います。

デジタル版画ー横尾忠則の時代

横尾忠則という作家は好奇心の塊みたいな人だと思います。

プリズムでの2回目の個展はデジタル版画の展覧会でした。
2002年のことです。今から約20年前、デジタルも版画として流通し始めたころのことです。当時新しい技法だったデジタルでの制作にわくわくなさっていたに違いありません。

デジタル版画、ジークレーとも言いますが、単に手描きの作品をスキャニングして版画としている場合もあります。しかし横尾さんのこの作品は本当の意味でのデジタル版画です。写真や手描きした部品をコンピューターに取り込んでそこから作品として構成していくという手法です。だから手描きの元絵というもはありません。つまりコンピューター上で制作をしているのです。

普通版画にはエディションナンバーというものがあります。〇/△、△枚刷ったうちの〇番目です。という意味ですがこのシリーズには通し番号しかありません。
すでに大家となっていた横尾さんの作品は安くは手に入らなくなっていました。多くの人に持っていただきたいということから、欲しい人がいれば何枚でもプリントします。という理由から通し番号になっているのです。だから価格もずっと上げないと決まっているのです。

ただしオファーがあればその都度プリントするのですが、色調に関しては毎回ご自分で監修し、時にはかわることもあるということです。

事実、この展覧会はニューヨーク、ロサンゼルス、東京、名古屋と開催されたのですが「最後の名古屋でやっと赤が納得のいく色になった」とおっしゃっていました。日々刻々心は変化します。今はまたきっと違う赤が横尾さんの心にあるのだと思います。

20年前の一番をぜひ見てください。

うろつき夜太ー横尾忠則の時代

「うろつき夜太」は1973年から1974年に「週刊プレーボーイ」に連載された柴田錬三郎氏の小説です。当初から挿絵担当として横尾さんと組んでの企画だったようです。その後絵草紙として豪華本としても出版され人気を得たものを1993年シルクスクリーン版画として東京青山のスペースユイから世に出されたシリーズです。

柴田と横尾は共に同じホテルに缶詰めになり相手からの刺激を受けて執筆・制作をすすめていたようです。
「夜太」のイメージを膨らますために俳優の田村亮をモデルに構想を練っていたその現場を写真に収めそれをモチーフに挿絵にしたのがこの作品です。
1970年代の横尾ポスターを彷彿とさせる色使いにあの頃の時代が持つエネルギーを感じます。

挿絵が小説のストーリーではなく、少しずらした視点で描かれたことも横尾さんらしい創造力です。それでも・・・いやそれだからこそ、「夜太」のカッコよさがグンと伝わるのです。

さぞかし熱い現場だったんだろうな。
熱い現場が横尾さんの周りにはきっとたくさんあった。そんな時代だったのを、今もこの作品が伝えてくれています。
プリズムには横尾作品が4点しかないけど。今愛知県美術館に行けば、ずっと熱く生きてきた横尾忠則の時間の連続が見える。