最善をつくす(2)ー百瀬博絵画展

明日5月18日月曜日、ギャラリーは通常営業しますが申し訳ありませんが百瀬博さんの在廊はありません。

5月18日はみち代さんの命日です。百瀬さんは少し離れた地にあるお墓にお参りに行くので在廊できないのです。
個展中なんだから別の日に行けばとか、個展の日程を最初から考えておけばいいのに、と考える方がいらっしゃるのは承知です。が百瀬さんは最初からすべてをわかっていてこのスケジュールにしました。

今回の個展はみち代さんとともに作り上げたことは最初にもお伝えしました。
だから会期中の気持ちを持ったままみち代さんの命日にお墓で個展の報告をしようと決めたのだそうです。ギャラリーにお運びくださるお客様には本当にご迷惑をおかけしますがわかってあげてください。

20日(水)からはまた13時から18時(最終日は17時)までギャラリースペースプリズムにて百瀬博さんが皆さんのお出でをお待ちしております。18日(月)もギャラリーは通常営業しますので是非お出かけください。

若いころわたしはー百瀬博絵画展

腕に頭を預けた少年の絵は毎回のように個展に登場します。もう30年近く描き続けているのです。

子どもの頃のクラスメイトがこんなポーズを一瞬していたことを思い出して描いたといつだったかの個展のとき話してくれました。特別仲が良かった子と言うわけでもなかったともおっしゃっていました。

百瀬さんはプリズムで何回個展をしてくださったでしょうか。そのたびにいろいろなお話をします。子供の頃の事とか、今楽しいこととか、家族の事とか、かなりプライベートなことも話します。

そんなお話の1つとしてある日話してくれたこと。
小学校の低学年の頃お母さんが病気で亡くなってしまいました。
お父さんとお兄さんは「博君はまだ小さいからお母さんはもう長くないことを知らせないでおこう」と決めたのです。だから百瀬さんにとってお母さんは突然亡くなってしまったという記憶だそうです。

そんな話を聞いた後私にはこの子は博少年だとしか思えなくなりました。それは私の勝手な妄想でしかありません。だからこの少年がだれなのかそれぞれの心の中で育てていってくれればいいのです。

この個展で少年の絵はこの1点しかありません。

発見です。
この少年の頭に小鳥のお面を被っており、腕の後ろに羽根が見えています。2羽の小鳥が少年の前に置かれている。どれも他の絵の中には登場しますが少年の絵に描かれたのはこれが初めてだと思うのですが・・・。
これにはいったいなぜなんでしょうか?これは百瀬さんも含めてこの作品を観る全ての人がそれぞれの妄想で答えを見つければいいと思います。

 

日曜日ー百瀬博絵画展

「百瀬みち代」さんの名前をご存じの方彼女を知っている方はたくさんいらっしゃることと思います。10年ほど前までプリズムで古布の洋服を発表していらっしゃた作家さんでした。本当にセンスのいいデザインを丁寧な仕事で作品にしていました。精力的でもありましたがそのためでしょうか制作には欠かせない手と目を傷めてしまい制作を休止していました。いつか復帰をめざしていらっしゃったのですが病気が見つかり3年前に道半ばであちらに行ってしまわれました。

みち代さんと百瀬博さんはご夫婦です。みち代さんに方が先にプリズムの作家として活躍されていました。博さんは当時別のギャラリーで作品発表をされていましたが、そちらのギャラリーが閉廊になったことがきっかけでプリズムの作家となられたのです。

さて今回の百瀬博さんの個展はみち代さん抜きでは語ることはできません。なぜなら個展の主役がみち代さんだからなんです。

実は昨日から今日のブログを書くにあたってものすごいプレッシャーの中に居ました。なぜならこの個展の真髄をどの言葉で書いたらいいいのか、皆さんに伝わるのか私のボキャブラリーでは書けないのではないかと今も自信がありません。もし薄っぺらな内容だと思われたのなら私の描写力のなさによるものですからお許しください。

前回2年前の個展はみち代さんを亡くされて1年後でした。もちろん今でも深い悲しみの中にはいらっしゃるのですが当時よく筆を取ってくれたものだと思うほどの状態でした。個展の時期はさらに1年以上前に決まっていたのですが延期を申し出られるのではないかと誰もが思っていた中「やります」と言ってくださいました。
もうお別れが近いと悟ったみち代さんは博さんに「あなたは絵描きさんなんだから私がいなくなってもちゃんと絵を描き続けてね。それが私の願いです。」と約束をしたそうです。博さんのことを一番よく知っているみち代さんです。その話を聞いて彼らのことをよく知っている人々はみち代さんの見事なお別れの言葉に改めてみち代さんのすばらしさに感動しました。
そういう中での2年前の個展。

それから2年後の今も博さんの心の中で生き続けるみち代さん。

この「日曜日」という絵を描いている終盤にいつもならもう少し空にしっかり筆を入れるのですがこの状態になったとき「もう描けているわよ」とみち代さんの声が聞こえました。博さんがじっくり絵を見てみるともうこれでいいなと心の底から思えたそうです。それからサインを入れて筆をおきました。

今回の個展はみち代さんと一緒に描いたと博さんは言います。幸せな時間だったようです。

みち代さんは博さんにたくさんの大切なことを置いていってくれたようです。おそらくご家族や周りの皆さんにもたくさん置いていったのでしょう。みち代さんはそういう方でした。

「来たことあるね」ー百瀬博絵画展

洋画家百瀬博さんの2年ぶりの個展です。
2年の間に変わったこと変わらなかったこと。百瀬博の現在の様子をご覧ください。会期中に詳細をご報告していく予定です。

5月16日土曜日午後5時から会場でアーティストトークも予定したいます。(予約不要・参加無料)是非お出かけください。

百瀬さんは5月18日(月)以外は会期中午後1時から6時まで在廊です。

倉中玲個展ー最終日

「吹き寄せられた先で」倉中玲展、本日最終日です。(午後5時まで)
心象風景を描きだすことで閉塞感からの解放ができたなら作家も鑑賞者もそこからまた歩き出す勇気や元気を得たことと思います。3年後の個展に向けてすでに彼女の心は熟成を始めているようです。

次回は5月14日(木)から「来たことあるね」百瀬博絵画展です。5月16日(土)午後5時からアーティストトークも開催いたします。(予約不要・参加無料)是非お出かけください。

削るー倉中玲個展

倉中玲さんが昨年スコットランドで過ごしたことは先日書きましたが、それよりずっと前にモンゴルにいたこともありました。その地もスコットランドとは違うけれど風がありました。

風は大地を削ってそれを巻き上げる。
風土というくらいですから、風と土が文化・風習・価値観・生活様式を作る。

この絵はベースにある土や草は他の絵と違ってかなり意図的に描いてあります。制作の方法として倉中玲作品の未来を予感させてくれているのかもしれません。

無題その2ー倉中玲個展

倉中玲個展の作品はすべて平面作品なので「絵」と呼ぶのが一番ふさわしい。

ここ1週間ほぼ毎日倉中さんは在廊しているので、作品の話を来場者と話すのをそばで聞き時にはご本人から直接お聞きする日々を過ごしています。

「絵」なのだけど、言葉の端々に画材に対して色や画面のマチエール以外のことが出てくることに気づきます。
木炭は桑は柔らかいとか柳は硬い、筆は化粧筆でふわっと撫ぜるように色を刷く、・・・。

もちろん鑑賞者の目から入る情報である画面がどんな完成形になるのかが一番大切なのだろうけれど、自身が描いている過程で得る感触もかなり大事な要素なのではないかと思うようになりました。

今の段階では五感フル活用とは言えないのだけど、彼女の感性はまだまだ鋭く研ぎ澄まされそうな予感はする。「絵」と言う言葉では言い足りない日が来るのかもしれない。

White holeー倉中玲個展

ブラックホールはよく知られたことですがその真逆の性質を持っていると言われながら実在が証明されていない理論上の天体です。ブラックホールが何でも吸い込む天体ならホワイトホールは何でも放出する天体。

実在が証明されていなくても吸い込んだら放出するところがあるということはなんとなく腑に落ちて心はざわつかない。

もし吸い込まれたものが放出されるのなら落ち着けるけれど、放出されるのは別物だと言われたら一層落ち着かなくなるような気はするのだが。

こんなことすらヒトはまだ解らないのだ。

で、吸い込まれるものや放出されるものが宇宙物理学などという物々しいことではなく単純なヒトの精神性の問題だとしたら、生きやすくなるのか生きづらくなるのか。メビウスの輪に放り込まれた気分になる。

無題ー倉中玲個展

「水」
溜まってしまったというより湧き出てきてそこにあるというようにこの絵は見える。ただしこれは私の感覚で観る人によっては川や海から運ばれたとか雨が溜まったとかに見えてもどれも正解。

このような「水」が描かれている作品が何点か会場に並んでいる。
ただし溜まってよどんでいるというイメージはない。だってここには清らかな色で描かれているから。

美しい「水」は地層を通って濾過された汚れのない水。
つまりは何らかの圧力(気圧や重力)があってここにある「水」

風の力で吹き寄せられることと圧力で濾過されることは近からず遠からず。

結局生きているということはヒトトコロニ留まらないこと。
風があり雨が降り日を浴びれば変わっていく。何もいなかった星は清も邪も何でもありになった。

悪夢ー倉中玲個展

倉中玲さん本人が一番気に入っている作品「悪夢」

この絵に言葉は要らないだろうと言う。
何の屈託もない蛍光ピンクとエメラルドグリーンの色の上にのしかかるのか広がるのか黒い靄。これ以上不穏なことはない。

できればこんな「悪夢」に遭遇したくはないと思うのが人情。
だけど生きていれば大なり小なり遭遇してしまうのが「悪夢」
だとするならこれに立ち向かえる強靭な心が欲しい。

笑って過ごせるならそれに越したことはない、だろうか。
そんな雑把な心でいるのも豪胆を通り越しているような気もする。
それは無神経というものだ。

生ききるとは「強靭」と言うことなのかと思う。