病と付き合うー鉱さん、またね

この写真にある辺りの作品はほとんど4年前の作品です。
この時の個展では今まで深い思いを飄々とした表現だったにもかかわらず人物の表情には険しいものがあります。
ここにはありませんが少年の頃に好きだったというシートン動物記の中にある「狼王ロボ」もありました。その「ロボ」も人間に挑戦するような存在だったので険しい顔をしていました。

どうしたのかなとは思いましたが、作家にはいろいろな変化があるのは当たり前のことなのでそこからどう変わっていくのかが気になっていました。

今思うと体調が思わしくなかったのかもしれません。
子どもの頃からの病気の治療が良い効果が出てきたとはいえ、実は別の病の影が見え隠れしていたりもしたのだろうか。

女性が持つ生命力を敵わないなとおっしゃっていたことも思い出されます。「ロボ」についても狼の中では超絶な能力を持ちながら1匹のメス(妻)の存在を利用されて人間に捉えられてしまうという結末にやはり悲しみを感じていました。

強い生命力へのあこがれがそこここに見えていました。

 

森が全てを教えてくれるー鉱さん、またね

初めて板倉鉱司さんがプリズムで個展を開いてくださったとき、「僕が作っている作品は全部リルケの詩が基になっている」とおっしゃったとき、私は何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

鉱さんという人を知れば知るほど底の深さに驚かされました。

鉱さんはクリスチャンです。彼を知った頃「神様なんて本当にいるのかどうかわからない。」とおっしゃっていました。世間でよく言うその言葉とはちょっと違うなと当時も思っていましたが、神学や哲学や文学を深く読みといていた鉱さんは自分の哲学の中で答えを見つけようとしていての言葉だったのです。

そんな中でのリルケだったのです。「リルケは森が全てを教えてくれるって書いている」と。それを形にしたのが板倉作品だと言うのです。

先日前々回の個展のときに取材してくださった新聞記者のKさんががこの展覧会を観に来てくださいました。4年前取材された後、鉱さんは「取材なんて緊張するしやだなぁと思っていたけど僕の事とってもよくわかってくださってとても嬉しかった。」とおっしゃいました。今回Kさんが大学でドイツ哲学を勉強していたということを知りました。そして彼は「板倉作品はドイツ哲学を知る者にとってはとてもよくわかる作品ですよ。ドイツ哲学はとても詩的なんです。」とも教えてくださいました。

もう少し知っておきたいな。リルケの詩この期間中3回目に挑戦しています。

 

銅版画ー鉱さん、またね

板倉鉱司さんが銅版画を始めたのはいつ頃だったのだろうか?
ご家族もよくわからないとおっしゃるところを見ると随分昔から制作していたのだろう。彫刻を始めたのとそう違わないのではないかということです。

彫刻自体かなり平面的な表現なので銅版画と大きな乖離が無いように見えます。

今日紹介する版画は残された作品の中では比較的古いのではないかと推測します。それは彫刻にも古いものに似た表現があることからの推察です。

版画も彫刻もほのぼのとしてどこか飄々とした作品ではありますが、鉱司さんの心の中には深いものがありました。ドイツ哲学への深い造詣が込められていることをたびたびお話しされていたことが思い出されます。

鉄の彫刻家になるー鉱さん、またね

板倉鉱司さんは20代半ばころに知人から彫刻家の掛井五郎さんを紹介されます。世界的な作家ですからご興味のある方は調べてみてください。

家業の鉄工所を手伝い始めたころでもあります。
掛井さんも鉄を使って作品を制作していたことから仕事場の鉄工所で掛井さんが制作するということになったのです。必然的に制作の手伝いをすることになりました。

どうやって鉄の彫刻を作るのかノウハウを知ることにもなりました。

自分でもやってみたいという気持ちがむくむくと湧き上がってきたのでしょう。それからは絵よりも彫刻の日々になりました。
板倉作品は掛井作品の影響を受けていることはとてもよくわかります。
掛井さんからは「君は彫刻を作るな」と言われたこともあったとか。鉱さんの才能に掛井さんも脅威だっかのかななんて思ってしまうエピソードです。

鉱さんは掛井さんをとても尊敬していました。師の背中をずっと追いかけていたのかもしれません。

絵を描いていたー鉱さん、またね

板倉鉱司さんは小さい時から体が弱かったので、ウチの中で絵を描いて過ごすことが楽しい時間だった。

大人になって家庭を持っても偏頭痛に悩まされる日が多く仕事も休みがちだったのだけど、休んだ日に体調が回復してくるとやっぱり絵を描いていたと板倉夫人は言いました。夫人が鉱さんに体調を気にしつつ勤務を終えて帰ると楽しそうに絵を描いていたことを今でも思い出すのだそうです。

30歳くらいまではよく絵を描いていて、個展まで開いたというからかなりのめり込んだことが伺えます。

この絵でもわかるようにオイルパステルが主な画材だったらしい。外国製のたくさん色数のあるオイルパステルのセットを大事に使っているのを夫人の朋子さんは記憶しているとか。

体調はなかなか上向きにならず体調に合わせて仕事ができるように親族と仕事を共にするようになったのです。その仕事が鉄工所だったことがその後の展開に大きくかかわってくることになるのでした。

 

鉱さん、またねー板倉鉱司/彫刻・銅版画・ドローイング遺作展

プリズムのお客様にもそして作家仲間の方々にも、多くの方に愛された板倉鉱司さんが皆さんとお別れしてからこの夏が過ぎると2年が経つことになります。

この度ご遺族の皆さんと遺作展を開くことになりました。

鉄の彫刻家としてプリズムでは紹介してきましたが、初期には絵を描いていました。メインが彫刻になっての後に銅版画も始められそして最後の時間はドローイングを楽しんでいたとのこと。どの時期にどんな作品を制作してきたのか時間を追っての紹介は作品の整理をしてもわからないことだらけで叶いませんでしたが、とにかく観ていただきたいという思いで展示をさせていただきました。

追って毎日のブログで詳細を書けるだけ書きますが、ご家族もわからないことだらけだとおっしゃていましたのでどれほどお伝えできるか心もとないことです。

作品を観ていただくことでそれぞれがそれぞれの思いを持っていただければ幸せに思います。

本当はもっともっとたくさん残っていたのですが、運搬の都合により大きな作品は持ち込んでいません。展示されている作品はご希望があればどれも販売可能です。

林孝子雅羅素展ー最終日

「林孝子雅羅素展」は本日(7月6日)最終日です。
今年は時計と鏡。特異な発想は毎回驚きばかりです。
2026年もこの6月から7月にかけて孝子さんの個展を開催予定です。来年は何を見せてくださるのか楽しみに待っていてください。

次回は一昨年逝去された鉄の彫刻家板倉鉱司さんの遺作展です。
初期の水彩画から代表的な鉄の彫刻・銅版画、絶筆となったドローイングまでアトリエに残されていた作品を観ていただきます。

「鉱さん、またねー板倉鉱司/彫刻・銅版画・ドローイング遺作展」
2025年7月10日(木)-20日(日)*7月15日(火)休廊
正午ー午後7時(最終日は午後5時まで)
〒461-0001名古屋市東区泉1-14-23ホワイトメイツ1F

鏡に色模様を付けるー林孝子雅羅素展

昨日文字盤が鏡でできた時計を紹介しました。その鏡にサンドブラストで模様をつけたということを書きました。

で、この鏡です。緑の模様をどうつけたのかの話です。
サンドブラストで模様を彫った後そこに緑のラッカーで色付けしたのです。
鏡の表面はつるつるなので色付けはなかなか困難。サンドブラストをかけて表面をざらざらにしておけばラッカーがうまく乗ります。
この方法ってガラス作家の皆さんには一般的な方法なんでしょうか?色々調べてみてもそういう方法は出てきません。
孝子さんに聞いてみると、こうやったら色が入れられるんだろうなと思ってやってみました、と。やっぱり超オリジナルな技法でした。

この鏡は表ではなく裏面をブラストして色を入れてあります。

早々少し前にお生まれになった方には記憶にあるかとおもいますが、昔はお店などに開店した時に贈られたのか贈り主の企業名などが入った鏡がよくありました。そんな名入れもガラスの加工を生業にしていた林家の仕事の1つでもあったそうです。鏡が無地でないのは孝子さんにとっては当たり前のことだった。「鏡に絵があるのは見たことがない」と多くの方がおっしゃいますが、孝子さんにとっては逆なんだそうです。

発想の違いはそんなところにもあるのですね。