
「花井正子展ーShanguri-la」は本日最終日です。
削ぎ落とした表現の中に剥き出しの真実が見えた。
次回はどんな切り口でそこを見せてくれるのか楽しみです。
プリズムは10月9日(金)から「Fashion Crossroad 2020秋冬」です。
まだまだCOVID-19の影響下イレギュラーな会期です。
10月9日(金)−31日(土)正午ー午後7時(日曜日と最終日午後5時まで)*火曜休廊

WHITE MATES bldg.1F 1-14-23Izumi Higashi-ku Nagoya Japan Phone052-953-1839

「花井正子展ーShanguri-la」は本日最終日です。
削ぎ落とした表現の中に剥き出しの真実が見えた。
次回はどんな切り口でそこを見せてくれるのか楽しみです。
プリズムは10月9日(金)から「Fashion Crossroad 2020秋冬」です。
まだまだCOVID-19の影響下イレギュラーな会期です。
10月9日(金)−31日(土)正午ー午後7時(日曜日と最終日午後5時まで)*火曜休廊

人は一人で生まれて一人で死んでいく。否も応もない。
そのシンプルな事実に人は右往左往する。何故そうなのか。
覚悟・・・。
この絵を観ていると、その覚悟を問われているような気がする。
そこには厳しさも優しさも暖かさも冷たさも心地よさも苦しさも無い。
ただ当たり前にある事実。
覚悟、・・・できているだろうか。
毎日ギャラリーに入ると待ち構えている絵たち。気になる絵は日ごとに変わり、見え方も変わる。明日が最後のこの展覧会。私の1点はどれだろうかと思う間もなく、この絵がさっきからずっと私から離れようとしない。「覚悟」せねば。

2020年10月9日(金)ー31 日(土)*火曜休廊
正午ー午後7時(日曜日と最終日は午後⑤時まで)

あっけらかんとしているようで、深い意味と思いを秘めている。
それは何かが解りきらない不安。
解らなくても良いと言い放てない心の弱さ。ちょっと認めたく無い、気の強さ。
不遜な微笑みが見える。

今日は中秋の名月とか。
明るい満月の光が、周りのうす雲に反射しているのも美しい。
小さめの満月がその明るさを強調する。
月の明かりが優しいのか妖しいのか。
月に意志はない。だから優しくも妖しくも無い、はずだがそうはいかない。
科学的なことを言うと、月の満ち欠けが人間のバイオリズムを左右するのだそうだ。だから心の起伏に大きな影響を及ぼすらしい。
そんなことを意識して生活するほど繊細ではないが、今夜は月と一緒に帰りたい。晴れているかな、帰りの時間は。

もう20年にもなるだろうか。
「MOMO・BIWA・ICHIJIQ」という個展を花井正子さんがプリズムで開いたことがあった。
1メートル四方ほどの画面に桃や枇杷が1枚に一個ずつ描かれていた。
だからそこに描かれていたフルウツたちはかなり巨大ということになる。
絵の前にいると、そのフルウツに自分が入り込んでいく感覚になってきたものだった。それは案外心地の良いことで、淡いピンクや黄色が優しかった。しかし今考えてみると、人によっては優しさに飲み込まれそうな恐怖を感じていたかもしれない。
この絵を観ていたらあの日の感覚が戻ってきた。
これはそんなに大きな絵ではなく、ちょうど桃の大きさの桃だ。
それでもその感覚が思い出されたのは、あの展覧会を見た者だけの特権であるとほくそ笑む。

花井正子さんの作品は遠い日の記憶、それも何十年も思い出さなかったことを突然思い出すといった記憶の呼び覚ましのようだ。
作品についてたくさんの話をしていると、そういったエピソードがたくさん語られる。
溢れ出るがままに描かれた絵は結局記憶のピースであり、ちょっとした短編小説のようだけど、やがて少しずつ繋がって彼女のヒストリーになる。
彼女の絵は私小説ともいえる。それなら何故私小説的な絵ががどうして受け入れられるのか。一人一人の記憶は全然違うものなのに、集約されたそれは普遍になり共有できる記憶になるからだと思う。
あの日あの時の音や匂いや思いが見えたら、もう共有は始まっている。

花井正子さんが使う画材はパステルです。
パステルを紙に指で塗り込みます。
広い面を塗り込む際スポンジや綿棒などを使うのが普通ですが、花井さんはあくまで指に拘ります。
指に伝わる感触も表現上大切だと言います。
だからちょっとしたぼかしやかすれにも彼女にとっては大きな意味があるのです。花井さんの絵が饒舌なのはそういう訳です。
長時間絵を描いていると指の皮膚が破れるときがあります。
破れる前に仕事を終えるようにしているのに、破れてしまう。
血の滲んだ絵はどうしてもボツにせざるを得ないこともあるとか。
厳しくて過酷な制作。
そうしてでも表現したい思い。
描かずにはいられない狂おしい思い。
時に時間差で追いかけてくる、思い。

クリアな色の美しさに目を奪われ、他のものが目に入らない、最初はね。
目が慣れてくると、うるさいほどに呼びかけてくる。
話しかけるというより、呼びかけてくるの方が断然相応しい。
ちょっと黙っていてくれないかなと思うほどだったのに、いつの間にか淑やかにそこに佇んでいた。
そうなると言いたいことは何だったのかと、追いかけるのはこちらの方になっていることに気がつく。
時既に遅し、か・・・。
もうこの絵は何も語っては来ない・・・。
本当に2度と語ってはくれないのだろうか?
多分数年一緒に暮らしてみてほしい。
きっとある時、突然あなたに呼びかけてくる。
饒舌な存在であることに気付く。

私は「光の道」と言われるものにとても魅かれます。
最近は福岡の神社のことをさすことが多いようですが、それではなく日の出か日の入りに見られる陽光、あるいは水に映る月の光。
日本では見渡す限り広大な大地というものがあまり無いので海に登る日や沈む日の煌めきにそれを見ることが多い。海なら月も「光の道」として見ることができる。
月の「光の道」にはたくさんのものが見えないだけに青白く水面に写る光は凄惨ささえ感じられる。
風景というのは不思議だ。それには意志も意図もない。それでも人はそれに感動する。月はただそこにあり、たまたまあった水に道のように写っているだけ。それなのにそこに何か意味を見つけようとしてみたりするし、力をもらったりする。
ただそこにあった「月光」を観客が自由に観ることを思い、だけど隠しきれない思いが透けて見える花井正子の「月光」がここのある。