灯ー花井正子展

あっけらかんとしているようで、深い意味と思いを秘めている。

それは何かが解りきらない不安。

解らなくても良いと言い放てない心の弱さ。ちょっと認めたく無い、気の強さ。

不遜な微笑みが見える。

LuNaー花井正子展

今日は中秋の名月とか。

明るい満月の光が、周りのうす雲に反射しているのも美しい。
小さめの満月がその明るさを強調する。

月の明かりが優しいのか妖しいのか。
月に意志はない。だから優しくも妖しくも無い、はずだがそうはいかない。

科学的なことを言うと、月の満ち欠けが人間のバイオリズムを左右するのだそうだ。だから心の起伏に大きな影響を及ぼすらしい。

そんなことを意識して生活するほど繊細ではないが、今夜は月と一緒に帰りたい。晴れているかな、帰りの時間は。

iー花井正子展

もう20年にもなるだろうか。
「MOMO・BIWA・ICHIJIQ」という個展を花井正子さんがプリズムで開いたことがあった。

1メートル四方ほどの画面に桃や枇杷が1枚に一個ずつ描かれていた。
だからそこに描かれていたフルウツたちはかなり巨大ということになる。

絵の前にいると、そのフルウツに自分が入り込んでいく感覚になってきたものだった。それは案外心地の良いことで、淡いピンクや黄色が優しかった。しかし今考えてみると、人によっては優しさに飲み込まれそうな恐怖を感じていたかもしれない。

この絵を観ていたらあの日の感覚が戻ってきた。
これはそんなに大きな絵ではなく、ちょうど桃の大きさの桃だ。
それでもその感覚が思い出されたのは、あの展覧会を見た者だけの特権であるとほくそ笑む。

追憶B−花井正子展

花井正子さんの作品は遠い日の記憶、それも何十年も思い出さなかったことを突然思い出すといった記憶の呼び覚ましのようだ。

作品についてたくさんの話をしていると、そういったエピソードがたくさん語られる。

溢れ出るがままに描かれた絵は結局記憶のピースであり、ちょっとした短編小説のようだけど、やがて少しずつ繋がって彼女のヒストリーになる。

彼女の絵は私小説ともいえる。それなら何故私小説的な絵ががどうして受け入れられるのか。一人一人の記憶は全然違うものなのに、集約されたそれは普遍になり共有できる記憶になるからだと思う。

あの日あの時の音や匂いや思いが見えたら、もう共有は始まっている。

dー花井正子展

花井正子さんが使う画材はパステルです。
パステルを紙に指で塗り込みます。

広い面を塗り込む際スポンジや綿棒などを使うのが普通ですが、花井さんはあくまで指に拘ります。

指に伝わる感触も表現上大切だと言います。

だからちょっとしたぼかしやかすれにも彼女にとっては大きな意味があるのです。花井さんの絵が饒舌なのはそういう訳です。

長時間絵を描いていると指の皮膚が破れるときがあります。
破れる前に仕事を終えるようにしているのに、破れてしまう。

血の滲んだ絵はどうしてもボツにせざるを得ないこともあるとか。

厳しくて過酷な制作。

そうしてでも表現したい思い。
描かずにはいられない狂おしい思い。

時に時間差で追いかけてくる、思い。

 

 

on the road・・・宵ー花井正子展

クリアな色の美しさに目を奪われ、他のものが目に入らない、最初はね。

目が慣れてくると、うるさいほどに呼びかけてくる。
話しかけるというより、呼びかけてくるの方が断然相応しい。

ちょっと黙っていてくれないかなと思うほどだったのに、いつの間にか淑やかにそこに佇んでいた。

そうなると言いたいことは何だったのかと、追いかけるのはこちらの方になっていることに気がつく。

時既に遅し、か・・・。
もうこの絵は何も語っては来ない・・・。
本当に2度と語ってはくれないのだろうか?

多分数年一緒に暮らしてみてほしい。
きっとある時、突然あなたに呼びかけてくる。
饒舌な存在であることに気付く。

月光ー花井正子展

私は「光の道」と言われるものにとても魅かれます。

最近は福岡の神社のことをさすことが多いようですが、それではなく日の出か日の入りに見られる陽光、あるいは水に映る月の光。

日本では見渡す限り広大な大地というものがあまり無いので海に登る日や沈む日の煌めきにそれを見ることが多い。海なら月も「光の道」として見ることができる。

月の「光の道」にはたくさんのものが見えないだけに青白く水面に写る光は凄惨ささえ感じられる。

風景というのは不思議だ。それには意志も意図もない。それでも人はそれに感動する。月はただそこにあり、たまたまあった水に道のように写っているだけ。それなのにそこに何か意味を見つけようとしてみたりするし、力をもらったりする。

ただそこにあった「月光」を観客が自由に観ることを思い、だけど隠しきれない思いが透けて見える花井正子の「月光」がここのある。

エッジの効いた絵ー花井正子展

花井正子さんは「エッジを効かせたい」とよく言います。

この絵は私の定位置から一番良く見える作品なのですが、実に気持ちよくその「エッジ」が目に入ってきます。

空と海。山と空。光と影。昼と夜。此岸と彼岸。生と死。

分かれ目をきっぱり描くこと。

これが描けた時、彼女の中で大きな勇気が生まれるのだと私は信じている。
だから「エッジ」を描くときは一際全身全霊をかけている。

何ものにも惑わされず、描けた「エッジ」だから、観る者は圧倒され感動するのだと思う。

花井さんは土日曜日在廊予定ですが、9月30日(水)も午後1時から6時在廊することになりました。

どこへ行くのかー花井正子展

花井正子さんの作品には随分昔から「道」がよく登場する。

この「道」はどこに行く「道」なのか、あるいはどこに行ける「道」なのか。

なぜ「道」が描きたかったのか。

答えはきっとこれらの絵の中にあるのだけど・・・。

決して言わないでほしい。

ミステリーの結末を告げるほど無粋なことは無い。

そして良質なミステリーならゆっくり時間をかけて読みすすめたい。
細かいディテールの中に素敵なヒントがキラ星のごとくちりばめられているはずだから。

 

*長くこの絵たちと会話を楽しみたい方は是非ギャラリーまでお声をかけてください。電話での対応も可能です。(052-953-1839)

 

白の理由ー花井正子展

「なぜ白?」と尋ねると「虚無を描いているのだから色に意味はない」と花井正子は嘯く・・・。

彼女は「私のテーマは明るい虚無や」と関西弁で言う。
そのたびに私は彼女の言葉に欺かれているような気がして落ち着かない。

絵を描くことは至福の刻を過ごすことと言う花井にとって、彼女の手から紡ぎだされる絵が「虚無」であるわけはない。絵を描くことだけが彼女の「Shanguri-la」に行き着く手段のはずだから。

あ!
この世に存在しない「Shanguri-la」は行き着けたなら「虚無」なのだろうか。
そんな、はずは、ない、と、思いたい。

花井の描く色は「白」も「青」も「赤」も一色なのに、たくさんの何かが見える。言葉にすることはできないけれど、時にはうるさいほど雄弁だ。だからだろうか、私は「虚無」に辿り着けず、絵の前で幸せな途方に暮れる。