名古屋に帰ってきた加藤裕之さん。
それは加藤さんも失意だったことでしょうが、もう一人残念に思っていた人がいました。名古屋モード学園時代の同級生松岡哲史さんでした。
松岡さんはファッションデザインの勉強した後ファッションの営業畑で彼のスキルを上げていました。
東京でのデザイン生活を辞めて帰ってきたことをとても惜しく思っていました。
惜しむ気持ちはやがて「加藤デザインを世に送るサポートをする」つまり彼のデザインを売る会社を立ち上げるという決意に変わったのです。
どれほど困難が待ち受けているのか想像もつかなかったはずです。
松岡さんはなかなか飄々とした人物です。
聞けば「何にも考えていませんでしたよ」なんてはぐらかされそうですが、相当な決意があったはずです。
松岡さんに出会ったころ「ゴキちゃんはハンディのある体なので長くは生きられないかもしれないんです」とおっしゃったことがありました。それだけ深い心でGokiを背負ったんということだと思います。
立ち上げた会社の名前もブランド名の「Goki」加藤さんの名誉あるあだ名です。
松岡さんが優しい声で「ゴキちゃん○○だね」と加藤さんを呼ぶ時を思い出します。加藤さんは振り向いてただうなずくだけ。そんな二人の呼吸は信頼し合っている者同士のものでした。あ、誤解無きように。お二人にはそれぞれ大切な家族がありますからね。
加藤さんのハンディのことは今回初めて書きます。
生前加藤さんにお尋ねしたらハンディのことは書かないでほしいと言われました。マスコミの取材も極力受けないようにしていました。そんなことがいろんな意味で加藤さんのデザインを正しく評価していただけない可能性が無きにしも非ずだったから。でも今回は書きます。もうそんなことどうでもいいですよね。加藤さんの真実を知っていただくのにはそれを伏せることはできません。
松岡さんのことも今まで書いたことがありませんでした。
Gokiデザインは出来上がったモノだけが全てだから。
それはそうだと思うのだけど、その後ろにあるたくさんのストーリーはやっぱり知ってほしい魅力的な物語。今回だけは書きます。松岡さんがGokiを立ち上げる決意をしなかったら加藤さんのあのデザインは生まれなかった。それも大事な大事な物語。
Gokiは船出をしました。1996年のこと、バブルだってとっくにはじけて決していい時代ではなかったはず。