私にとってこの世界に数多紹介されている芸術家の中で誰が一番ということは決めかねますが、片手のうちに入っている作家の1人がアンゼルム・キーファーであることは間違いない。
キーファー展「ソラリス」を観てすでに1か月以上が経ってしまった。何か書いておかなければと思いつつ頭の中で纏まってこないのだ。これはもう自分の中で纏まりようがないに違いないと意を決したというわけです。
もう20年ほども経つだろう。名古屋市美術館でキーファーの「シベリアの王女」に出会って以来特別な存在になっている。かの美術館には地元なので年に数回はこの作品に会っている。会うたびに見えるところが違う。会うたびにあの大きな画面のどこか1か所あるいは2,3か所しか目に入っていないことにある時気が付いた。見入ってしまうと10分でも20分でもその前から動けなくなるので、本展によっては意図的に会わずに帰ってくることもあるほど。
さて私はキーファーが大好きだと思っているにもかかわらず、キーファー作品に対峙したことは実は「シベリアの王女」と同じ名古屋市美術館の展覧会で1、2点テーマ展で観たことがあるのみ。
二条城での展示。
何か観光との絡みを感じ、観に行くことに若干の抵抗感は否めないのだったけれど、観ない後悔はしたくないので出かけた。
初頭に出かけた人から「天気が悪いと見にくいかもしれません」という情報をえていたのですが、行ける日はこの日だけと言う状況だったその日は運悪く土砂降り。最悪の天気に思えた。
館内に入ると案の定薄暗い中で作品は観づらい・・・。
と思いきや、目が慣れてくるとどんどん作品に引き込まれていく。天気が劇的に回復していくわけではないけれど、微妙に光の加減が変わるのは想定外の幸運だったのかもしれない。光の加減で見え方が変わるのは短時間で視点が変わる体験ができた。
さっき観た作品を振り返ってみるとまた別のところが観えてくる。「シベリアの王女」は観る日によって見えるところが違っていたのだけど、ここでは振り返るたびに見えるところが違う。それでも見えるところが違うという感覚は二条城でも名古屋市美術館でも同じ感覚を覚えた。
何だろう、この感覚。作品が雄弁と言うのはよく聞くけれど、キーファーの場合は多弁なのだろうか。
私の魂は十分揺さぶられ続けた。作品を目の当たりにしなければ絶対にわからない感覚。何度も館内を回り目が暗闇につかれると外の作品を観る。そしてまた管内の作品に対峙する。気が付けば1時間半ほどの時間が経っていた。体の疲れを感じても座る場所はない。これ以上見続けても集中できないと思い館を後にした。
実はキーファーがどう自分には観えるのかという自分への課題のほかにもう1つ自分の中のミッションがあった。
3年ほど前に亡くなった友人が私にあるものを託してくれた。それは江戸時代の女性文人(という書き方で合っているのか?)太田垣蓮月縁の品だった。あとに残されたご家族もその意図は全く聞かされてなかったという。
キーファーの作品の中に蓮月の短歌に呼応する作品があると日曜美術館での情報があったので読みとけたらと思っていた。蓮月に関しては手に入る書籍も少なく、それでも書籍も読んではみたけれど伝記のようなものであって短歌の解説や考え方の手掛かりはほとんどなかった。キーファー作品の中に何か手掛かりがあればと思ったがわかることは何もなかった。
キーファー作品はドイツ哲学とのつながりが深い。ドイツ哲学だけでなく禅それに伴い西田幾多郎の哲学とも深くかかわっているらしい。
ここでまたドイツ哲学と言う壁に出会う。そう、今プリズムで開催している板倉鉱司さんもドイツ哲学をこよなく愛した人。
キーファーの作品の中に「森」らしき空間がよく登場する。「森がなんでも教えてくれる」とリルケが書いていると板倉さんも言っていた。ドイツ哲学は「森」がキーワードだとK氏も言った。
「森羅万象」日本語だけど、ドイツ哲学の真髄なのではないか。
キーファー展が今1つ頭の中で纏まらないのは私がドイツの風土とそれに伴うものの考え方が自分の中に無いから言葉にならないのではないか。魂が震えたのは自分の感性がキーファーをキャッチしたからなのであって知識がないから言葉で考えることができないということなんだと今日の私は思う。
悔しい。知性でキャッチできないのは無知だからだということだけはやっとわかった。
キーファー作品を観ると「自分と対峙できているか」と厳しく突き付けられる気がする。
「知らなければ知る努力をせよ。」キーファーから私へのメッセージと受け取ろう。
*キーファー展は6月22日終了しています。