数年前、突然百瀬博さんの頭の中に現れた天使は今も健在です。
少しずつ何かが変わってはいるけれど、作品の中心に天使がいる。
頭に小鳥のお面を被り、緑の鞄を首から提げた天使。
それも3年前と同じ。
だけど確実に何かが違っている。何だろう。
変わっていて変わらない。
そもそも天使という存在は日本人の私たちにとってそれほど馴染みが無く、ともすればメルヘンの世界を思ってしまいます。彼の人間性からしてそういう世界観で天使を描いているとは思えません。
前回より深く天使を掘り下げてみたい。
WHITE MATES bldg.1F 1-14-23Izumi Higashi-ku Nagoya Japan Phone052-953-1839
数年前、突然百瀬博さんの頭の中に現れた天使は今も健在です。
少しずつ何かが変わってはいるけれど、作品の中心に天使がいる。
頭に小鳥のお面を被り、緑の鞄を首から提げた天使。
それも3年前と同じ。
だけど確実に何かが違っている。何だろう。
変わっていて変わらない。
そもそも天使という存在は日本人の私たちにとってそれほど馴染みが無く、ともすればメルヘンの世界を思ってしまいます。彼の人間性からしてそういう世界観で天使を描いているとは思えません。
前回より深く天使を掘り下げてみたい。
COVID-19による前代未聞の営業自粛解除後初めての展覧会であり、会期後半はきっちり梅雨の洗礼を受けた加藤鉦次さんの個展も本日最終日となりました。
まだまだ対策を怠ることは危険なので入場制限もさせていただき入場までお待ちいただくことも多々あり本当にご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。
それでもたくさんの方にお出かけいただけたことは感謝の限りです。
アートを心待ちにしていただけたこともこれからのギャラリー運営に大きな力をいただくこととなります。
次回は6月18日より「百瀬博展 gift-贈りもの」を開催いたします。
こちらも時節柄ギャラリートークはいたしませんが、
18(木)21(日)22(月)24(水)27(土)28(日)
午後1時−4時
百瀬博さんが在廊いたします。入場は3人まで、在廊は1組20分以内とさせていただきます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願い申し上げます。
加藤鉦次さんの絵はやっぱりどなたかがおっしゃったように現代の「印象派」なのだと思う。
「印象派」は光の変化と時間を捉えて絵にすることが特徴なのですが、これは完成されているものでもない。完成することはないのだろう。
だから「印象派」は古くも新しくもない。永遠に道半ばということになる。
それでも光と影と時間を追い求めるその画家の心が切なく、観客の心を離さないのだと思う。
この個展作品の制作を通して「影」の表現に納得がいくようになったそうです。
「影」が描ければ「光」も深い表現になる。
すでに古稀も過ぎ画家としてはベテランと言われる加藤鉦次さんですが、進化が止まらない。進化していくということは苦しいこともたくさんあると思うけれど、それすら楽しんでいるように見える。
立ち枯れたひまわりー晩夏。
旧盆も過ぎようとしている頃、北の地ではひまわりも盛りがすぎ稲も実りの時期を迎える。
自然は淡々と移ろっていくけれど・・・。
人の時間も案外概ね淡々と過ぎていくのかもしれない。
淡々と過ぎてゆくときは、大きな収穫を残してくれる。
人だって自然ほどでは無いにしても何かしら残している、と信じたい。
立ち枯れたひまわりに過ぎて来た自分の時間を観るようで、見過ごしにはできない。
葡萄が実る頃、葡萄の葉はもう既に当然新芽ではない。
加藤さんはその2つのみずみずしさを一緒に観たくてこの絵を描きました。
夏の光が葉っぱで乱反射して眩しい。
葡萄の蔓は観ている間に伸びていくかのような生命力を感じる。
緑・青・黄色・オレンジ
どれも生きる力に溢れている。
花の絵とは少し違った趣はあるけれど、視点の揺れは見える。
加藤さんの描きたい何かが少しずつ見えてくる。
野けいとうは春から夏の花です。
ただ強い花なので冬の初めまで咲くこともあるのです。
初冬のある日散歩していると野鶏頭の花が風に翻弄されていた。
鮮やかな色が横に靡く様に心奪われたそうです。
暖色が乏しい季節にはっとさせられた瞬間。
人にとっての瞬間は一瞬ではないことも事実です。
瞬間と瞬間の重なり合いがリアリティ。
多くの植物にとって秋は去り行く季節。
その季節を惜しむように小菊が咲き乱れる。
その周りでは多くの野の草はすでに立ち枯れようとしている。
画面左の花は小菊では、ない。
ヒメジオンだという。
「主役は小菊なんだけど・・・」
ヒメジオンにふと心が奪われたとして、それを集中力の途切れだとだれが非難できるだろうか。
視点が動いただけ。それは人の本質でもあるのかもしれない。
芙蓉の大株の向こうに実りつつある田んぼ。
夏の強い陽射しも田んぼの稲が吸収して優しい風として帰してくれる。
見渡してみると田んぼの向こうには小山がある。穏やかな里山の景色。
花を見たり、空を見たり、地面を見たり、後ろを見たり・・・。
その都度動く視点を1枚の絵にする。
「印象派の絵を観ているよう」と誰かが言った。
芙蓉の大株の横にあるのはグラジオラスだろうか。
人はある場面を見ている時、対象物に焦点が合っている時間は長いと思いますがその後ろの風景に焦点が合う時間もあるし横に焦点が合っているときもあります。焦点が動いていることに意識することはあまり無いかもしれませんが、実は動かないではいられない。
加藤さんの絵にはそういう眼差しの移ろいが描かれている。
絵の前に立って左右に動いたり、近づいたり離れたりしてみると、奥行きがはっきりしたり、ある部分がくっきり見えたり、後ろの遠くの風景が見えて来たり・・・。
写真にするとすべてが一目でわかるのが、なんだかつまらない。