それで結局「ききき」ってなんだったのでしょうか。
私の「ききき」とあなたの「ききき」と谷口さんの「ききき」はきっと全然違うということもなく、完全一致ということもなく・・・。
正しい答えなんて無いのではないでしょうか。
昨日の答えと今日の答えと明日の答えも微妙に違う。
だからずっと観続けられるのかもしれません。
超常現象が日常なら、日常は超常現象なのですよね、きっと。
WHITE MATES bldg.1F 1-14-23Izumi Higashi-ku Nagoya Japan Phone052-953-1839
それで結局「ききき」ってなんだったのでしょうか。
私の「ききき」とあなたの「ききき」と谷口さんの「ききき」はきっと全然違うということもなく、完全一致ということもなく・・・。
正しい答えなんて無いのではないでしょうか。
昨日の答えと今日の答えと明日の答えも微妙に違う。
だからずっと観続けられるのかもしれません。
超常現象が日常なら、日常は超常現象なのですよね、きっと。
あら?以前お目にかかったような・・・。
資料に目を通すと、5年前の谷口個展「儘花」に出品した作品に今年手を入れているらしい。
そういうことか。
今回の個展ではそういう作品が数点ある。
時間がたつと自分が生み出した作品に客観的になれるときがあるのだろう。
そんなとき、手を入れたくなるなんてこともあるのかもしれない。
ダビンチは生涯「モナリザ」に手を入れ続けたというではないか。
それは楽しい時間なのだろうか。
たくさんの・・・か?があるのだけど、コロナのやつめ、谷口さん来名できなかったじゃないか。残念至極である。
このところの天変地異にどうしても気持ちが持っていかれるのが癪だけど・・・。
stay homeを言われ始めた頃、例年春は案外風が強くて花どころではない日も多いのに、今年はいつになく穏やかな日が続きました。
閉じこもり生活を強いられているのに、桜も藤も菖蒲も咲き誇り、まさに春爛漫。自然は人の思惑と関係なくちゃんと巡って来て過ぎていきました。
それが妙に悲しくて、流行り病を恨んだりしたものです。
全く、日常と非日常は隣り合わせでした。
あの日の思いとこの絵は重なる。
花はちゃんと咲いてくれることを悲しむなんてどうかしていたなと、今日の私は思う。
非日常はいつのまにか日常になっていく。
今朝も起き抜けにスマホからの警報音が鳴り響いた。
昨夜の雨は目が覚めるほどの豪雨だったことを思い出す。
案の定、世界は壊れかかっていた。
先ほども日が射すほどの天気なのに警報音が鳴った。
河の上流ではまだまだたくさんの雨が降っているということ。
この警報音がただ注意を促すだけのものであってほしい。
疫病も災害も静まってくれることを祈るばかりだ。
谷口作品のタイトルはなんと示唆に富んでいることか。
「閃きは変化すること」
今日は他の作品を紹介するつもりだったのだけれど、タイトルが今日という日にはダイレクトすぎた。後日また紹介予定です。
タイトルがダイレクトということは、作品も「今」そのものなのです。
疫病から災害へと続く日常は人々の心を確実に蝕んでいる。
そこにちゃんと向き合っている谷口さんが見えてくる。
目を背けていてはいつまでも解決がつかない。
作品を描き続けることだけが絵描きにとっての解決の道。
そして実は疫病以前から人々が道から外れていたことに気付く。
「ききき」と猿が叫んでいる。
変化すること
変化すること
変化すること
・・・・・
朝起きるとテレビの画面からは梅雨空なんて叙情的な言葉で表現するには相応しくない災害のニュースが流れていた。
それからずっと今も雨は降り続いている。
恵みなんてとっくに通り越した邪悪な空。
疫病もまだ癒えぬというのに。
世界は壊れ始めているに違いない。
こういう時は心を落ち着かせて冷静でいなければ、と思う。
「透けて見えるようでは駄目なのですよ」
透けて見えてしまっている脆弱な心。
できれば飄々と生きていきたい。
*シルクスクリーン版画
自分の持てる感性を総動員して作品を観るのは楽しい。
が、これはかなり疲れることでもある。
綺麗な絵を観れば心がほっとする。
できればこういう絵と暮らしたい。
・・・・
本当だろうか。
あの美しいモネの睡蓮に潜んでいる画家の切ない思いに気付いたときから、その思いを追いかけて目が離せなくなったことは忘れていない。
谷口作品にも何か狂おしい思いが見え隠れしているのを見て見ぬ振りは、多分できやしない。
「魔法陣」
異界の扉など開けてはならぬ。
「開けろ!」
魔界からの声が聞こえる。
「谷口さんってどんな方ですか?」
良くされる質問です。
谷口さんに限らず会ったことの無い作家さんに対して良くされる質問なんですが、谷口さんも例外ではなく聞かれるのです。
まあ私の印象では作品とかけ離れた存在ではありません。
それが案外この手の質問にうまく答え足れない要因でもあるような気がします。
谷口作品を言葉で表すと「かわいい」とか「ファッショナブル」とか「イマドキノ」とかに置き換えられない。
それと同じで「どういう人?」という質問にもうまく答えられないのです。
「う〜ん。大学の先生で・・・」ともぞもぞ答え始めた途端相手は大概興味を失うらしく聞いてはいない。
そんな言葉が出かける頃には相手は作品に引き込まれていてもう自分がした質問にすら心の中には無くなってしまうらしい。
ずっとずっと前から谷口作品には「猿」が出てきます。昔はその「猿」を「芒格札(まんぐさ)」と言っていました。釈迦が悟りを開くまでになった動物の1つとされているらしいのですが。
「猿」は谷口さんの自画像なのか?
「ききき」の謎。
深まるばかりです。
私の感性が鈍いのかもしれませんが・・・。
絵が私の語りかけてくる言葉が日々違う。
ちょっとした(と私が勝手に思っているだけかもしれないが)絵の具の濃淡が大して気にならなかったかと思うと、別の日大きな意味を持って私の目を離さない。
名古屋市美術館にあるキーファーの「シベリアの王女」とはもう20年以上もそんな仲になっている。
谷口さんのこの絵「森のそばで海を聴く」も昨日からそんな仲になりつつある。
この絵に関して言えば、今日は色の面にしか見えない。昨日はもっと具体的な意味が見えたのに。意味が消えてしまっている。キャンバスの織り目に入り込んだ絵の具の色が妙によそよそしい。
そうなると無性に追いかけてみたくなるのは悪い癖。
明日この絵は私に何を語りかけてくるのだろうか。
楽しみになっているのは既にこの絵の魅力に取り付かれた証拠なのかもしれません。
「百瀬博展」は本日最終日です。
天使の中にたくさんの喜びとほんのちょっとの哀しみや苦しみを見つけたのではないでしょうか。
次回は7月2日(木)より「谷口広樹展ーききき」です。
谷口さんは7月10日(金)に在廊予定ですが、時節柄ギャラリートークはありません。また三密を避けるため入場制限をさせていただくことをお許しください。
搬入3日前に仕上がった作品です。
この個展では一番新しい作品ということになります。
前にも書きましたが、「百瀬博展」は4月に開催予定でCOVID-19 の影響で開催4日前に延期が決まりました。だから予定通り開催だったらこの作品は観られなかった。もしかしたら制作すらされなかったのかもしれません。
しかしこの作品は百瀬さんにとって新しい方向を示してくれたのだそうです。
「これができて良かった。ここからまたスタートできると思いました。」と。
たくさんの天使が生まれました。いろんな表情をした天使たちでした。中には少々険しい顔をした天使もいました。
間もなく70才を迎えようという百瀬さん。
70年も生きればいろんなことがあります。たくさんのいいこと。たまには良くないこともあります。前回の個展から今回までの②、3年の間にも日々はただ穏やかには過ぎてくれませんでした。絵にはそんないろんなことがスパイスのように効いています。甘かったり苦かったり辛かったり・・・。
最後にあどけない天使が生まれてきて良かった。
4月だったら昨日紹介した作品が最後だったそうです。あれもすっきりした腑に落ちる作品でした。どんなときでもちゃんと完結させることができるところはベテランの力を見せられた気がします。